理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)Brain Science Institute



情動のメカニズムの探求

神経回路メカニズム研究グループ
  情動機構研究チーム
  チームリーダー 
二木宏明


情動とは何か

 「情動」、聞き慣れない言葉ですね。「感情」といえば、わかりますでしょうか。喜怒哀楽のことなんですが、それでは何故、「感情」といわず、「情動」という言葉を使っているのでしょうか。恐怖、怒り、悲しみ、喜びなどの感情には、その当人にしかわからない主観的な側面と、外部から観察可能な側面があります。後者は、感情に伴う自律神経系の活動の変化(心拍数の上昇)やその他の身体的変化(顔の表情、筋の緊張の変化)、あるいは、感情が生じている時に示す行動を通じて客観的にとらえることができます。したがって、自然科学の対象として感情を取りあげ、動物実験の成果を踏まえて議論を展開しようとすると、客観的にとらえることのできる、感情の下位概念である「情動」を研究することになるのです。

 それにしても、情動という日本語は日常語としては、あまりなじみがないでしょうか。これは元来、心理学の専門用語で、英語では "emotion" といいますが、以前は「情緒」という言葉をこの訳語として使っていました。「情緒不安定」などという表現に使われる「情緒」ですが、他に日本語の表現として「下町情緒」という表現があり、恐れや怒りなどの激しい心の働きを表現するemotion の訳語としては不適切だということで、情動という言葉を使うようになったようです。

 ダーウィンは、情動の表出がネコ、イヌ、サルを経てヒトにいたるまで共通であることを指摘しており、動物での情動研究を基にしてヒトの感情・情動を論ずる根拠を与えてくれています。また、彼は情動を「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」であるととらえています。つまり、情動の生物学的意義は、個体維持と種族保存を達成するためにあるのだという訳です。

 ヒトでも動物でも、外敵や有害なもの、危険なものに対しては恐怖が生じ、それから逃げる。一方、自分の欲求を満たしてくれるものには接近行動を示す(快情動)。そして、欲求の充足が阻止された場合には、怒りが生じ、攻撃行動が起こります。このように、情動にはヒトや動物を行動に駆り立てる性質があります。こうした適応行動が起こるためには、外界から入ってきた刺激の生物学的意義(たとえば、有害か否か)を評価する過程が働いていると考えられます。

情動と脳を巡って

 それでは、こうした情動の脳内メカニズムは、どのような方法でどのように研究されてきたのでしょうか。そして、現在、どのようなことがわかっているのでしょうか。  脳の特定の部位を破壊して情動がどう変わるかを調べる破壊実験や、特定部位の電気刺激で引き起こされる情動を調べる刺激実験、あるいは、特定の情動が生じている時に関連する脳の部位のニューロン活動を記録したり、その部位に放出される神経伝達物質などを測定する動物実験が行われてきました。また、情動を制御する脳内の神経活性物質・神経伝達物質に関する研究もいろいろと行われています。さらに、遺伝子工学のめざましい進歩によって、脳に発現する特定の遺伝子と情動の関係を調べる研究も行われるようになってきました。


図1 ヒトの脳における扁桃体の位置
-  ヒトでは、陽電子断層撮影法(PET)や機能的磁気共鳴画像法(fMRI)などの、外部から脳の内部を見る方法によって、情動的な体験を思い出している時や情動の生じている時に、脳のどの部位が活発に活動しているかを調べる研究が行われています。以上のように、情動の問題に関しては、これまで種々な手法によっていろいろな方向から攻めたててはいるのですが、情動は複雑であまりにも未知の部分が多く、難関不落の城なのです。

 情動は脳のどこで司られているのでしょうか。情動と密接な関係のある脳の場所は、系統発生的に古い脳である「大脳辺縁系(Limbic system)」と呼ばれている大脳の内側に広がっている脳の部位です。この大脳辺縁系の中でも、扁桃体(Amygdala)(図1)が情動の発現に重要な役割を果していることが、これまでの研究で明らかになっています。

 そして、この扁桃体と密接な線維連絡のある「視床下部」やこの部位と線維連絡のある「中脳中心灰白質」も、情動の表出─情動に伴う自律神経系の反応(心拍数、呼吸、血圧の変化)や 行動面での反応(恐怖の場合のすくみ反応(Freezing)や逃避反応、怒りの場合の攻撃反応)の生起─に関与していることがわかっています。つまり、扁桃体─視床下部─中脳中心灰白質という1つの系が情動に関与する脳の部位であるというわけです(図2)。 -
図2 情動(恐れ、怒り)に関与している脳の部位
この扁桃体─視床下部─中脳中心灰白質の系をより上位から制御している部位として、大脳の連合野、とりわけ、前頭連合野の情動における役割も無視できません。

図3 快情動に関与している部位(★)
- なお、情動の種類によって(たとえば、恐怖と怒りでは)、扁桃体、視床下部、中脳中心灰白質の各部位内で関与する領域が違っていることも明らかになっています。

 ところで、恐怖などの不快な情動の研究は比較的古くから行われていましたが、快情動(快感)を引き起こす脳の部位が脳内に存在することが明らかになったのは、1954年のことです。現在では、快情動を引き起こす主な部位は、青斑核、腹側被蓋野、内側前脳束(外側視床下部)、側坐核などであることもわかっています(図3)。

 われわれは fyn という遺伝子(チロシンリン酸化酵素の1つ)を欠損させたマウスで一連の実験を行い、fyn が恐怖という情動に関係した遺伝子であることを見出しました。一方、fyn という遺伝子を過剰に発現させた場合に、情動にいかなる変化が生じるかを調べる目的で、現在、遺伝子改変マウスを作製中です。今後は、fyn を欠損させたマウスと fyn を過剰に発現させたマウスで、恐怖の制御に関する電気生理学的基盤と生化学的基盤を探る研究へと歩を進め、これを糸口にして、脳における恐怖という情動の発現のメカニズム解明をめざして、新たな突破口を開こうとしています。

 また、快情動に関しても、モルヒネやモルヒネ様物質であるエンケファリンの脳内標的であるミューオピオイド受容体欠損マウス、脳内の快情動関連部位の情報伝達で重要とされているドーパミン受容体を欠損させたマウス、あるいは、ドーパミンのトランスポーターを欠損させたマウスなどを用いて、快情動発現のメカニズムを探る研究にも着手しています。  ごく最近、われわれは fyn がアルコールの感受性にも関係した遺伝子であることを見出しました。具体的には fyn 欠損マウスはアルコールに対する感受性が高く、アルコールに対する一過性の耐性が見られないこと、また、fyn 欠損マウスがアルコールに敏感なのは、アルコールに対する NMDA 受容体の機能の異常が関連していることなどの知見を得ることができました。このようなアルコールの感受性に関する実験は、情動の研究とは一見関係がないように思われるかもしれませんが、ヒトの飲酒時の暴行問題やアルコール依存のメカニズムにも関連した動物実験として位置づけすることができると思います。

 最後に、情動の研究の今日的意義について、一言ふれておきます。最近の世紀末的社会状況は人々に不安と欲求不満をもたらし、ストレスを増加させ、個人レベルでは情動障害、心身症などの増加、社会的には校内暴力、家庭内暴力、薬物依存、麻薬中毒などの社会問題を生じています。このような状況下で、情動の研究の重要性が広く認識されることを願って止みません。


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