理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.18(2002年11月号)




理研における脳科学研究 ― 私の回想録

認知機能表現研究チーム
副チームリーダー 
程 康



写真1
利根川進教授が理研を訪れ始めた頃の来訪時に(1989)。私たちの居室はプレハブの建物の中にあった。この建物は現在も残っているが、今では主に岡本仁博士のゼブラフィッシュの住まいとなっている。見てわかるように、建物の3分の1は会議用のスペースになっている。グループでは週3回、3つの研究チーム合同の昼食時セミナーを開いていた。



写真2
BSI東棟と中央棟が建てられる前の理研の構内(1995)。この写真は(現在の)BSI西棟の屋上で撮られた。桜の木が見受けられ(今はなくなってしまった)、まだ第一カフェテリア(新)の南側に列を成していたが、これらの桜は植えられてから数年しか経っていなかった。そう、中央棟はかつてのテニスコートの上に建てられたのである。もちろん、旧テニスコートの新コートへの移転もスムーズに行われた。




写真3
レイとともに大磯のBSIリトリートで(1999)。私はこの写真がレイの風貌と笑顔を最もよくとらえていると思う。唯一足りないのは、彼が手にすべきたばこである。レイがたばこをやめたのは、病院で癌との闘病生活を送っていた、人生最後の年だけであった。
 理研の脳科学研究は、1997年10月の脳科学総合研究センター(BSI)の設立以前には、はるかに小さな規模で行われていた。東京大学を退官された伊藤正男先生がお越しになり、理研の国際フロンティア研究システム(FRP)の一環である思考機能研究グループのグループディレクターになられた。同グループは1988年の10月に始動し、伊藤正男先生、エドワード・G・ジョーンズ先生(現カリフォルニア大学デービス校在任)、ならびに田中啓治先生をそれぞれのチームリーダーとする3つの研究チームから構成されていた。同グループが置かれた研究棟(現BSI西棟)は1990年末まで完成しなかったため、およそ2年間にわたり、約20名からなるグループの全員がプレハブの建物を居室としていた(写真1参照)。 この期間を通じて、私たちの臨時の実 験室はFRPの中央研究棟の地下一階や理研の研究本棟に点在していた。伊藤先生はその当時、いつもながら多くの仕事をこなされていて、一人で実験をされることもあった。先生の部屋は地下一階の出口(唯一の出口!)の脇にあり、廊下側が大きなガラスの壁になっていて、部屋の前を通る一人一人を眺めることができた(少なくとも誰もが先生を眺められた!)。私の実験室は先生の部屋の真向かいにあった。それで、私はといえば、普段は一日中部屋を閉め切っていた。深夜を過ぎた頃、共同で使用していた熱湯の入ったポットのところに伊藤先生がインスタントラーメンを作りにお見えになると、私たちは時折短い立ち話をすることがあった。3つの研究チームはとても近接しており(物理的にだけではなく、もちろん研究上でも)、その点は新研究棟に移動してからも変わらなかった。
 脳科学研究はその後着実な進展を見せており、BSIは理研における主要な研究センターの一つとして認められてきた(写真2参照)。田中啓治先生は、FRPの思考機能研究グループを宣伝する初期の小論のうちの一つ(1989)で、「理研脳科学総合研究所(RIKEN Institute of Brain Sciences)」(BSIの現行名と著しく似通っている!)が向こう15年間で広く知れわたるようになることを望まれていた。現在それは現実のものとなっている。海外から少しでも多くの研究者を呼び込むことは、FRPにおいて早い時期から重要視されてきた。この目的を達するために、理研は海外の研究者の受け入れに多大な努力を費やしてきた。初期の頃、私たち海外から集まった研究者のほとんどは、FRPのゲストハウス(現国際交流会館A-D棟)に滞在していた。D棟のクラブハウスにはたくさんの思い出がつまっている。クラブハウスの建物は、元々現在の建物とは道を挟んだ反対側に建てられていた。後にG棟を建てるためのスペースを取るために、現在の場所に移転させられたのである(私はこの場所を通るたびに、いまだに勝手が違うような気分にさせられる)。要するに、私たちはクラブハウスがまだかつての場所にあった頃に、たくさんのことを(たいてい夜中遅くまで!)したのであった。
 過去14年間にわたって、多くの人々がここで働き、またそれ以上に多くの人々が当研究所を訪れてきた。そんな元同僚の一人が故Raymond Tadashi Kado博士である(ケドさんといった方がもっと通りが良いだろう。写真3参照)。レイ(Ray)は日系アメリカ人で、数年前に退官するまで20年以上もパリ郊外に本拠地を置くフランス国立科学研究センター(CNRS)のディレクターを務めた。彼は退官前に毎年定期的に伊藤先生のチームに研究をしに来ていて、退官後には伊藤先生のチームにおける上席研究者となった。レイが毎年いつ頃やって来たのかを私は正確に覚えていないが、11月にはいつもこちらにいたということは覚えている。なぜなら、11月のボジョレ・ヌーボーの解禁日には、いつも私たちのためにワインとチーズのパーティを開いてくれたからである。レイは偉大な科学者かつ教育者であり、そしてとりわけ、偉大な友人だった。彼の来訪は、当時神経科学の分野でのキャリアをスタートさせたばかりだった私たちほとんどに甚大な影響を与えた。彼が治療のため、フランス政府によってパリに送還される(レイはこの言葉の意味を私にとても注意深く説明した)前に、身の回り品を整理するために彼を車に乗せて病院から理研に一時的に連れ戻した日のことを、私は今でも覚えている。私たちはいつものようにお互いに別れの言葉を交わしたが、結果的に私がレイを目にしたのはそれが最後になってしまった。レイが今年の5月12日に亡くなったとの報に接したとき、私は悲しみにたえなかったが、BSIで彼を知る多くの人々も同様だったであろう。


 

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