理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.18(2002年11月号)




多様な行動はいかに学習・生成できうるか?
モデル構成論的アプローチ

知能アーキテクチャ研究グループ
動的認知行動研究チーム
チームリーダー 谷 淳


はじめに
 我々は日常の色々な行為を、あまり意識することなく行うことができる。毎朝起きて、コーヒーをいれて飲んだり、そして電車を乗り継ぎ道を間違えずにオフィスまで来るといったことは、一見たわいのないことのように感じるが、これらの行動の生成は工学的な実現がほとんど不可能なほど複雑かつ多様である。
 多様で複雑な行動が行えるためには、まず運動知覚レベルでの日々の繰り替えしの経験が基本となる。そしてそれらの経験が、長い学習沈着過程を経て徐々に構造化されていった時、複雑な行動が生成できるようになると考えられる。また驚くべきことは、人間はその場の状況に合わせて、それまで経験したこともない創造的な行動パターンをときに生成することができる。このような、構造性、創造性の創出は脳のどのようなメカニズムによって可能になるのであろうか?私達のチームでは、まず抽象化した神経回路数理モデルの上で以上の問題点を十分検討し、そこで得られたモデル仮説を行動心理および脳生理の実験などで検証していくことを目指している。


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図1 階層的局所表現モデル。
下位モジュールはそれぞれ、右コーナ曲がり、直線、分岐点通過などの行為を独立に学習し、上位モジュールはそれら行為の順序組み合わせを学習する。

局所表現モデル
 さて、モデルを考えるにあたり、複雑な一連の行動も、単純な部分的な運動単位のパーツの組み合わせから構成されうると考えるのは合理的であろう。基本的な仮説は、まず行動の基本となる行為単位のレパートリーが学習獲得され、またさらにこれら行為単位を組み合わせた上位のレパートリーが獲得されるというものである。さて、このような階層構造的メカニズムが神経回路モデル上にいかに構成できるかが次の問題である。
 私達は4年ほど前に、局所神経回路モジュールの考え方で、上の問題に対応できると考えた。図1において神経回路モジュール群は2階層に配置されている。下の階層では各神経モジュールがそれぞれ異なる基本行為単位の「エキスパート」となるべく学習し続けている。例えばいくつかの部屋間を移動するロボットナビゲーションの実験では、右コーナーを曲がる、分岐点を通過するといった場合での特異なセンサー・モータの時系列パターンにそれぞれ適応して活動するエキスパートモジュールが自己組織化される。一方、上位の階層モジュールは、下位の階層モジュール活動の切り替わり組み合わせ時系列パターンを記憶するエキスパートモジュールができてくる。つまり、右コーナーを曲がって、直線廊下を進み、左コーナーを曲がるといったような、特定の道順をあらわすようなイベントのシーケンスを上位のモジュールはそれぞれエンコードするのである。詳細な説明は省くが、結果として、上位のあるモジュールが活動すると、ある特定の部屋をナビゲーションする大まかなシナリオが想起され、そのシナリオにそって下位階層で、順次に右コーナー回りモジュール、そして直線移動モジュールといった行為単位が生成される。


分離表現モデル
 さて、この結果は非常にわかりやすいものであるが、人間の脳がこのような明示的な内部表現をするとは限らない。提案したモデルでの行為単位と神経回路モジュールを1対1でマップするという考え方では、必要な行為の数だけモジュールを用意しなければならないことになる。この問題点を踏まえ、最近考えたのが階層的分散表現モデルである。
 図2に階層的分散表現モデルを示す。この神経回路モデルは上位と下位の2つの神経回路から構成されており、各階層にモジュール構造はない。上位の神経発火活動は下位のそれに比べてゆっくりであるように設定する。上位と下位を結ぶ連絡神経があり、このインターフェースを用い上位の神経回路は下位の神経活動パターンの切り替えを行う。例えば、上位の神経系が下位の2つの連絡神経の発火度合いを0.8と0.2にクランプしていた状態から0.3と0.7にクランプする状態に移行したとすると、下位の神経回路の活動の境界条件が変わり、その神経系の活動時系列パターンが1つのパターンから別のそれにスイッチするのである。これは、非線形力学系でよく知られた分岐現象である。連絡神経からの入力条件を変えることにより、1つの神経回路網から多様な時空間パターンが生成できるようになる。実際にアーム型ロボットを用いて色々な運動パターンの学習実験をしてみると、物に触りにいく、腕を周期的に振る、腕をホームポジションに戻すなどの、行為単位が下位の神経回路上に連絡神経の発火パターンと対応して自己組織化されるのが分かる。また上位の神経回路では連絡神経の発火パターンの切替のシーケンスを学習することにより、下位の行為の組み合わせ方を記憶するようになる。
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図2 階層的分散表現モデル。
上位の神経回路は、連絡神経の発火のパターンを変えることにより、下位の神経回路の生成する行為パターンを多様にスイッチさせることができる。
 さらに興味深い点は、下位の神経回路は学習した運動パターン以外のパターンも生成できるということである。学習したいくつかのパターンを補完して「あいのこ」のようなパターンを生成したり、またある時は学習したパターンのセットからは考えられないような新規のパターンが生成されたりする。このようなことは、1つの神経回路網に運動パターンが多重にかつ分散的に記憶されるために起こる。学習されたそれぞれの記憶パターンは独立に保持されるのではなく、1つの神経回路の中であたかも押したり引っ張ったりする関係性の中に埋め込まれている。そうした状況において、複数の学習したパターンの間に滑らかな面が形成されると、そこには補間が可能な汎化した構造が現れる。また逆にその間に歪みが生じると、そこには経験したことのない特異な偽記憶が表現され、その偽記憶の読み出しが多様な行為の創出のきっかけとなる。ここでの学習とはある種の全体構造(ゲシュタルト)を生成することであり、そこに汎化性と多様性の両特性が共存する点が興味深い。

おわりに
 本文では行動の構造的生成のための2つの異なるシナリオを紹介した。前者のシナリオは、どちらかといえば全体は明示的な部分に分解されるという還元論的な立場をとり、客観的説明はしやすいが、人間の複雑な現象を語るには役不足な感がある。これに対して後者は関係性こそがすべてで、そこに全体構造が発現するという全体論的な立場をとり、人間の心のおもしろさが十分表現できるのだが、論理的に詰めた説明が難しくなる。今後、私達はモデル研究を軸に、還元論と全体論の間を行き来しつつ、実際の脳では行為の学習生成のためにどのようなシナリオを取りうるのかを調べていきたいと思う。


 

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