理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.19(2003年2月号)



Brain Network
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使用依存的「言語」そして「文化」の発達

行動遺伝学技術開発チーム

研究員 岩里 琢治


 江戸時代、方言の違いのため、九州と東北の人では話ができなかったそうだ。明治にはいり、欧米列強によるアジア植民地化の動きに対抗できる強力な中央集権国家を作るため、東京山の手の方言をもとに標準語が作られた。その後、学校教育、テレビなどの力で、標準語が普及し、現在では日本人同士が意思疎通することに関して障害はまったくないといえる。それ自体は素晴らしいことだが、少し行き過ぎの感もある。世間には、標準語が正しい日本語と思いこんでいる人が結構いるようだ。外国人が日本語を習うときは標準語を習うべきだろうが、日本人にとっては、標準語が正しく方言が間違いというのは無意味だ。言葉は、単なる意思疎通の道具ではなく、文化の基盤となる大切なものであり、決して効率だけで考えるべきではない。標準語も方言もどちらも正しい日本語といえる。ただ、標準語と方言を比較すると、標準語の方が上等と思える場合が多い。どうしてだろうか。明治以来、標準語は放送、文学、科学など幅広い分野で使われ、磨かれたのに対し、方言は、そうした機会に恵まれなかったからと考えて間違いないだろう。言葉も脳と同じで、適切な刺激を受け続けないと発達することができない。方言を磨く努力を怠ったことが、今日の方言の衰退(日本語の画一化)、そして地方の衰退(文化の画一化)につながっている。
 現在の世界における英語と各種言語の関係は、日本における標準語と方言の関係に似ている。昨今のグローバリゼーションは、アメリカへの一極集中をもたらしつつある。そして、アメリカ英語は世界の「標準語」になろうとしている。サイエンスの世界では、すでにそうなっているともいえる。日本でもBSIのように英語を公用語とする研究所が現れた。ほとんどの国内学会が英語で行われ、研究費の申請も、大学の講義もすべて英語となる日が来ることも、もはや空想の世界ではない。そうなると必要に迫られ日本人の英語能力は高まり、サイエンスをする上での言葉の障壁は今よりも格段に低いものとなるだろう。また、それだけでなく、日本語と密接な関係にある上下関係、過度の慎み深さも軽減され、アメリカで普通に行われているような自由な議論も可能となるだろう。言語と文化は一心同体であり、欧米で発展したサイエンスの神髄を理解する近道は、英語を使ってサイエンスをすることなのは明白だ。昨今の日本のサイエンス界はこの方向に進んでいる。そして近い将来それなりの成果をあげると思われる。
 しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。短期的な効率のみを追いかけて、日本語に「方言」のような運命を辿らせ、日常会話にしか使えないような下等な言語にしてしまって良いのだろうか。それは、日本文化を博物館入りさせることにつながるのではないだろうか。現在、日本人の多くは、サイエンスを行うにあたり、日本語と英語の違いの大きさに苦しめられている。しかし、それは英語だけでは困難な、日本語でこそ発想できる独創的なサイエンスをするチャンスでもあるはずだ。長所と短所は普通、表裏一体の関係にあるものだ。英語は論理的な言語とよくいわれる。しかし、それは英語の本質によるのではなく、英国、米国が世界に覇権を広げる過程で、その言語も様々な文化と触れあい、磨かれ洗練されていったことによるのだと思う。現在の日本語では、サイエンスに関して、英語に対抗する力はないかも知れない。また、サイエンスにおいて英語が必須であることは疑う余地がない。しかし、すべて英語に乗り換えるのではなく、我慢して日本語でサイエンスをすることも続け、日本語を論理的な言語に磨き上げる努力をしないといけないと思う。遠回りのように見えても、結局それが、我々が独創的なサイエンスをするための近道なのではないだろうか。明治時代に和魂洋才という言葉があった。この考え方を、本質的な意味で再評価する必要があるのではないだろうか。

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