理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)理研BSIニュース No.2(1998年12月号



嗅覚研究が心のメカニズムを解く
機能分子研究チーム
チームリーダー 
森 憲作

 「どうして色々な匂いが色々な感情に結び付くのかという大きな疑問が大昔からあったんです。例えば、古代の詩人ルクレチウスは、鼻の中に丸い粒子が入ってくると心地よい匂いとして、逆に刺々しい粒子なら嫌な匂いとして感じるのではないかと考えたように─」

 我々に様々な感情を引き起こす、匂いの正体とは? 現在、嗅覚研究の最前線に立つ機能分子研究チームの森憲作チームリーダーに聞いてみました。

Q 嗅覚系の研究領域を選んだ理由は?

A 私が嗅覚の研究を始めたのは25年ぐらい前になります。その頃の嗅覚系は視覚や聴覚の世界に比べてずっと遅れていて、基本的にはほとんど何も分かっていない研究領域だったんです。それだけ未知の世界ですから、大きな研究対象として面白い発見があるのではないかという動機でスタートしました。でも、実際、研究がどっと盛り上がってきたのは、1991年にバックとアクセルが匂いの分子を受け取るタンパク質の受容体を初めて見つけてからのことなんです。

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図1 匂い分子受容機構
a: Golfのaサブユニット Br: Golfの Brサブユニット
AC : アデニン酸シクラーゼ ATP:アデノシン3リン酸
cAMP :アデノシン環状リン酸 GDP:グアノシン2リン酸
GTP: グアノシン3リン酸 Gs(olf) : 嗅細胞特異的GTP結合タンパク
Q 「匂いの分子」ですか?

A ええ。匂いの正体は物質から出るたくさんの目に見えない小さな分子なんです。それが鼻の中に入り、脳を刺激し、感情を起こさせる。快、不快の判断は匂いの入力と密接に結び付いています。嗅覚系は、情動を担当するシステム(扁桃体や視床下部等)に直接影響を与えます。このことは視覚系、聴覚系にはない嗅覚系の特徴でしょう。ですから嗅覚の研究は、これまで科学的解明方法がないために明らかにされてこなかった快情動、不快情動のメカニズムを知る上で重要な鍵を握っていると考えています。

Q 受容体の発見がその突破口となったのはなぜですか?

A 嗅覚の場合は40〜50万種類もある匂い分子に対応するために、たくさんの違った受容体が存在します。しかも、それが約1,000種類もある──これは非常に驚異でした。それ以前の研究では多くても20種類ほどの受容体で匂い分子を識別できると思われていたからです。脳がこれほど多くの違った種類の受容体からの信号をどう処理し、良い匂い、悪い匂い等の情報を識別するのか。受容体がたくさんあることが面白い問題を提供し始めたんです。

Q そもそも受容体とは?

A 受容体は鼻腔の天井部分に並んでいる嗅細胞にあり、一種のポケット構造を持っています。1,000種類の受容体はそれぞれにポケットの形が少しずつ違っていて、その形にうまくフィットする匂い分子を受け取るしくみです。でも、40万種類ある匂いの分子を1,000種類の受容体で受け止めるには全然数が足りませんよね。そこには受容体と匂い分子の“ゆるい関係”が存在することが分かってきました。つまり、1つのポケット構造に完璧に当てはまる匂い分子だけでなく、それとよく似た特徴を持つ匂い分子でもポケットは受け止めてくれるんです。

Q 受容体から脳への情報伝達は?

A そのことに関しても、非常にきっちとした配線があることが分かってきました。
 1種類の受容体は鼻の中に少なくとも数千個はあり、それら同じ種類の受容体から出たいくつもの配線はすべて、嗅球内にある2つの入力端子(嗅糸球)へつながる。だから、今、鼻の中でどのセンサー(受容体)が匂い分子と結合しているか、という情報はどの入力端子に信号が送られているか、ということを調べれば分かるんですね。そういうロジックを使って、匂い分子を識別、分類することができるんです。また、どうしてこの匂いを嗅ぐと、こういう気持ちになるのかという高次脳機能に関するロジックもおそらく存在するはずです。今後はそれを解明する方向へ研究を延ばしていきたいと思っています。

Q 嗅球のメカニズムについて、最近新しい事実を解明しているとのことですが?

A はい。嗅細胞から送られた特定の匂いの情報は、嗅球内の特定の領域に伝達される、という匂いの質的分類のメカニズムが分かり始めています。
 哺乳類の嗅球は4つのゾーンに分かれていて、例えば、ゾーンIの一部では脂肪臭のような「くさい匂い」を認識します。その各ゾーンの形成には細胞接着因子のOCAMと呼ばれるものが関係しているんです。OCAMは、嗅細胞の軸索(入力端子への配線)と嗅球の僧帽細胞(脳の入り口への配線)とのシナプス形成に大きく関与していると考えています。

Q 例えば調香師のように、匂いの識別に長けた人たちがいますが?

A 話を単純化して、バナナの匂いでセンサーAとセンサーBが興奮したとしますね。すると2つのセンサーは、同時に各入力端子へ信号を出します。そして、その「同時に入ってきたぞ」という信号を受け止める細胞が入力端子の奥にあるんです。この細胞は訓練によって枝分かれし、強化され、発達します。そして、何十種類ものセンサーからの情報を1つの匂いとして結び付けるんです。ですから調香師の鼻がいいというのは、特別なセンサーを持っているとかセンサーの数が多いとかいうことでなく、ある1つの匂いがどのセンサーとどのセンサーの組合せなのかを覚える神経連絡が普通の人より発達しているということなんです。

Q 研究の具体的な状況、進め方は?

A 現在の嗅覚研究はより複雑な脳の上位中枢部分へと進んでいます。ただし、受容体が発見されてから間もないということで、実際はやっと嗅覚メカニズムの基本的な構造、機能が見えてきたところです。
 私のチームでは鼻の嗅細胞レベル、第1次中枢と呼ばれている嗅球レベル、未知の領域といわれる大脳皮質のうちの旧皮質レベルという3つのステージに分かれて研究を行っています。そのため基本的にはあらゆる手段を使っています。私たちの嗅覚神経系の研究だと、分子生物学、電気生理学的な方法、光学的な測定法などの基礎研究の多くのメソッドを利用しています。脳研究は1つの研究集団ですべてを解明することがなかなか難しい分野ですので、他の研究チームとの連携が非常に重要になってきます。

Q 嗅覚研究の成果が人類社会に還元するものは?

A 基礎研究の成果は必ず社会に役立つと確信していますが、それがどんな形で役立つかは正直分からないんです。
 例えば、私のチームでは、嗅球内からテレンセファリンという新しい機能分子を発見しました。この分子は大脳皮質や海馬などを含む、終脳と呼ばれる人の脳の中で最も発達した重要な領域の神経細胞にだけ発現するという特徴を持っているんです。
 今年の『ランセット』という医学雑誌に載っていたんですが、このテレンセファリンが、てんかんやヘルペス脳炎によって脳がダメージを受けると、血清中で濃度が上昇することが分かったんですね。これまでは、脳がダメージを受けているかどうかは深部の脳波を調べなければ分からなかったんですが、今ではこの濃度を測定することによって診断できるというわけです。
 基礎研究というのは、例えばこんな形で思いもよらないところで社会的成果に結び付くんです。だから、いま私たちがあと5年もしたらこうなるだろうなと想像しても、確かなことはほんとに分からないんですね。

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図2 嗅覚系神経回路
Q 最後に今後の嗅覚研究への意気込みをお聞かせ下さい。

A やはり基礎知識の確立と積み重ねが重要だと思うんです。1つの基礎知識の研究が次の基礎知識を得るために絶対必要なんです。あるところで得られた基礎知識を元に、別の研究者がまた一歩先を研究し知識を増やしていく。基礎研究にはそういうメリットがあります。嗅覚の基礎研究は他の分野の研究とリンクしながら、最終的にはそれが脳のメカニズムを解明する土台を創っていくのだと思います。


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