理研BSIニュース No.32(2006年6月号)

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特集

元山 純

脳の発生メカニズムとその破綻による疾患

病因遺伝子研究グループ
元山研究ユニット
ユニットリーダー
元山 純(もとやま じゅん)


はじめに

人の脳は約140億個の神経細胞と、そのさらに10倍ものグリア細胞から成り立っています。 その構造はとても複雑で、多くの機能を備えています。 脳の発生の出発点は、卵子と精子が出会った瞬間にできあがった受精卵です。 1個の受精卵から出発して膨大な数の細胞からなる脳を形成するまで、細胞分裂と細胞分化が長い時間をかけて進行します。 私たちは脳ができあがる過程に注目し、その過程の理解によって脳を理解しようとしています。


脳の発生とソニックヘッジホッグ蛋白質

受精卵は細胞分裂を繰り返し、将来胎児の元となる胚ができます。 その胚の一部から神経管とよばれる管ができ、その管が脳と脊髄からなる中枢神経系の基礎となります。 私たちは、神経管から脳が形成される過程を理解することが、脳の理解につながると考え、2つのテーマを中心に研究しています。 1つ目のテーマは、脳の正中構造の決定の仕組みについてです。正中の決定が、脳の発生の中で最初に起こる重要なステップといってもよいかもしれません。 2つ目のテーマは神経幹細胞の発生の仕組みについてです。


私たちが現在注目しているのは、ソニックヘッジホッグという分泌蛋白質の機能です。 この蛋白質は脳の発生に必須であるのみならず、生後の脳の機能維持にも重要であることが分かってきています。 さまざまな細胞群が、脳の発生を担う一部として機能を果たすためには、多くの細胞による協調した組織の構築が不可欠です。 この過程は細胞間相互作用に依存しており、多種多様な分子の働きに支えられていることが分かってきています。 ソニックヘッジホッグは、その細胞間相互作用において重要な役割を果たしている可能性があります。 特に、私たちや他の研究チームの研究によって、ソニックヘッジホッグは正中構造の決定と神経幹細胞の発生制御に関わっていることが分かってきました。 私たちの目標は、ソニックヘッジホッグ蛋白質のシグナル伝達に関わる分子の機能と役割を解明することにより、脳の組織構築と維持の仕組みを理解することです。


図1:マウス初期胚でのソニックヘッジホッグ蛋白質の発現と正中構造の決定
走査型電子顕微鏡により観察したマウスの初期胚(胎齢7.75日)の正面図(左)。 緑色で示した細胞でソニックヘッジホッグ蛋白質が発現している。 同時期の胚の断面の拡大図(右:左の図の点線の位置)。 抗ソニックヘッジホッグ抗体による免疫染色。 将来、脳になる部分(head fold)は、脊索前板(prechordal plate)に接しており、脊索前板で発現しているソニックヘッジホッグ蛋白質(緑色)によって、脳の正中構造が誘導される。


図2:ソニックヘッジホッグ遺伝子の欠損による全前脳症モデルマウス
胎齢10日胚の走査型電子顕微鏡像(顔面部正面)。 ソニックヘッジホッグ遺伝子を欠いたマウス(右)では正中構造が発生せず、単眼症(眼の位置を緑色で示す)となる。 正中構造の欠損に伴い、将来、鼻腔となる鼻上皮(マゼンタ色)も左右に分離せず単一となる。正常胚では眼、鼻腔ともに左右に分離する(左)。


図3:ソニックヘッジホッグシグナルの異常による脳腫瘍
ソニックヘッジホッグ蛋白質の受容体を欠いた成体マウスでは脳腫瘍(medulloblastoma、濃い紫色)が高頻度に発症する。

正中構造の決定の仕組み

脳は正中構造によって左右に分かれています。 脳の発生過程で正中構造が決定するのは、人の胚では受精後およそ3週目と考えられています。 その時期の脳は、まだ神経板とよばれる一層の未分化な細胞層で、内胚葉細胞層に裏打ちされています。 その神経板の中心部直下にある細胞群が、ソニックヘッジホッグ蛋白質を分泌しています(図1)。 そのソニックヘッジホッグ蛋白質の作用によって、脳の正中構造が誘導されると考えられています。 ソニックヘッジホッグ蛋白質の作用を受けた神経板の細胞は、自らもソニックヘッジホッグ蛋白質を発現し始めます。 そして、その脳内でのソニックヘッジホッグ蛋白質の分泌は、将来、脳を構成する興奮性と抑制性の神経細胞のバランスの決定に最終的に必要であることが分かっています。


人における正中構造の異常

全前脳症は、脳の正中構造の発生ができなくなる先天性発生異常です。 この病気の特徴は不完全な正中構造の形成であり、重篤な場合では左右の脳の分離が起こらず、単眼症になってしまいます(図2)。 この疾患は遺伝的原因による場合と、環境からの影響により起こる場合があります。 遺伝的原因の一つが、ソニックヘッジホッグ遺伝子における突然変異であることが1996年に発見されました。 また、環境からの影響として、妊娠期間中の飲酒や妊婦が糖尿病を患っている場合に、胎児が全前脳症となるリスクが高まることがよく知られています。 私たちは最近、ソニックヘッジホッグのシグナル伝達が、これらの環境因子によって妨げられる可能性を見出しました。 この発見によって、環境因子による全前脳症の発症は、ヘッジホッグシグナルの障害の結果として説明できる可能性があります。


神経幹細胞の発生の仕組み

2つ目のテーマは、神経幹細胞の発生の仕組みです。 神経細胞とグリア細胞は神経幹細胞から生まれます。神経幹細胞は発生の初期には神経細胞を生み、後期になるにつれてグリア細胞を生み出します。 異なる種類の細胞を生み出すタイミングの制御機構は、未だに明らかではありません。 最近の研究により、私たちはソニックヘッジホッグのシグナル伝達が、正常な神経幹細胞の発生に必要であることを明らかにしつつあります。


ソニックヘッジホッグシグナル伝達の異常による脳腫瘍

人やマウスではソニックヘッジホッグのシグナル伝達の異常によって、脳腫瘍をはじめとする癌が発症することが報告されています(図3)。 ソニックヘッジホッグのシグナル伝達に関わる分子は、神経幹細胞を含む出生後の脳のさまざまな細胞で観察されています。 これらの細胞の細胞分裂は出生後では抑制されていますが、ソニックヘッジホッグシグナルの伝達異常によって癌化することが考えられています。 今後、ソニックヘッジホッグの機能障害による発癌機構を、マウス変異体を用いて明らかにしていきます。 また、私たちは環境因子がソニックヘッジホッグの機能に干渉することを見出しています。 正常の脳機能維持にあたって、神経幹細胞の関与が示唆されていますが、その幹細胞維持にソニックヘッジホッグが関わっていることが分かっています。 成人の脳に対する環境刺激が、ソニックヘッジホッグシグナルにどのように影響し、それが脳機能にどのような結果をもたらすかに興味があります。


おわりに

私たちの目標は、脳の発生発達のメカニズムを理解することです。 その過程で、遺伝子によって制御されている発生メカニズムも環境からの影響(例えば母胎内環境、生後の環境)を常に受けており、その影響に柔軟に応じて変化している可能性を見出しました。 私たちの研究は、環境変化に対する脳の発生メカニズムの変動の理解につながり、母胎内や出生後で発生発達する脳への環境からのリスク解明の手がかりとなると考えています。


Aoto K., Nishimura T., Eto K. and Motoyama, J.: Dev. Biol. 251, 320-332 (2002).
Motoyama J. et al.: Dev. Biol. 259, 150-161 (2003).
Aoto, K., Motoyama, J.: Hedgehog-Gli Signaling in Human Disease, Chapter 14, 177-183 (2006). (Landes Bioscience / Eurekah.com, Springer Science+Business Media, Inc.)


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