理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)Brain Science Institute



神経発生研究とゼブラフィッシュ

発生・分化研究グループ
発生遺伝子制御研究チーム
チームリーダー 岡本 仁


私たちは脳のおかげで、記憶や学習を行い、感情を持つことができます。このような脳の働きは、神経細胞(ニューロン)同士の結合によって作られる回路網の活動によって支えられています。記憶や学習は、神経回路網の活動の状態が、回路網が経験する様々な入力の積み重ねに応じて、動的に変化できることから可能となったと考えられています。最近、記憶や学習の際に神経同士の結合部位(シナプス)が示すダイナミックな特性変化に関する知識が急速に増し、神経回路網の機能遂行において、これらの現象が持つ機能的意義が明らかになってきました。このような意味で、出来上がった脳の設計図(機能的回路図)を明らかにし、それを模倣することによって、同じ働きをするコンピュータを作ることでさえ夢ではなくなってきたといえます。しかし、脳の神経回路網がいかに精緻で合目的に作られているかが明らかになればなるほど、「いったいどうしてこんなものが、生き物のなかで作られてしまうのか?」という謎が深まってきます。いったい、どのような歴史的な成り行きで即ち進化的にどのような有為転変を経て、どのような仕組みで即ちどのような発生学的機構によって、私たちの脳の発生が可能となったのでしょうか。神経発生生物学とは、このような疑問に答えるための研究分野で、その意味では“脳の設計図”の裏にある“脳の設計思想”を調べる学問であるといえます。

 脳は恐ろしく多様な神経細胞から成り立っています。そのため、脳の特定の神経細胞に焦点をしぼって、その分化の仕組みを分子レベルで研究しようとするとき、ごくわずかな量の実験材料しか得ることができないという困難な問題に、神経発生学者は頭を悩ましてきました。神経分化機構の研究では、大量の材料から出発して、注目する生理機能を発揮する物質を精製するという、従来の生化学的な手法が、ほとんど通用しなかったのです。
このような問題を、克服または迂回するための様々な手段は、1980年代になってようやくあみだされました。モノクローナル抗体や遺伝子クローニングなどといった革新的な諸技術の発明と、培養系やモデル実験動物の利用による実験系の単純化という二方面における進歩が、車の両輪のように働き、1990年を境にして、それまでに答えを得られないまま放置されていた神経発生学の数々の謎が、分子レベルで解明されるようになりました。とりわけショウジョウバエや線虫といった無脊椎動物を実験材料として使い、まず形態や行動に異常を示す突然変異個体を単離し、原因遺伝子を分子遺伝学的手法によって同定するというアプローチの確立は、ごくわずかの細胞のみで特異的に働く分化因子やその遺伝子を同定し、機能解析を可能としました。

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ゼブラフィッシュ
 次々に同定された遺伝子を色々な動物で比較検討した結果、驚くべきことに、ヒトを含む脊椎動物の脳の発生の過程では、ショウジョウバエや線虫の発生で使われているのと同じ分子や基本原理が使われていることが明らかになりました。
例えば、発生過程のヒトの脳で、どこからどのような脳神経が伸び出すのかは、ハエの体でどの節からどのような構造(ハネや脚)がはえるのかを決めているのと同じ一群の遺伝子によって決められています。
またヒトもハエも、同じ遺伝子の活性化が、眼が作られるための最初の一撃になることが知られています。このような発見の蓄積のおかげで、動物種を越えた発生の普遍的原理を踏まえた上で、今度は逆に、動物種ごとに個別化された多様な問題に取り組むことが可能となってきました。
そこで、ヒトを含めた脊椎動物に固有な神経発生の問題に正面から取り組むため、脊椎動物でも、ショウジョウバエや線虫を用いるのと同じ精度で、発生の諸過程を研究できるような実験材料が求められるようになりました。


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図1転写制御因子Islet-3
-  ゼブラフィッシュは、このような要請から実験動物として使われるようになりました。ゼブラフィッシュの胚の神経系は、極めて少数の細胞から構築されています。ヒトでは1個の筋肉には数百個から数千個の運動神経細胞がつながっていますが、ゼブラフィッシュの胚では、多くとも数個から数十個の運動神経細胞しかつながっていません。このことは、何百軒もフランス料理やイタリア料理のレストランがある大都市と、各々が1軒ずつしかない小さな町とを比べた場合、店の数こそ大差はあるものの、どちらの町にも役場や議会があって知事さんや町長さんがいて、町の運営が行われているのと似ています。つまり、神経細胞の数こそ少ないのですが、ゼブラフィッシュの脳はヒトの脳と同じように体を制御しているのです。

 ゼブラフィッシュは、飼育が最も簡単な熱帯魚の一つで、成魚のメスは数日ごとに50〜200個の卵を産みます。また、胚は極めて速く成長し、28.5℃の水温では受精後2日半で発生を完了します(ちなみにヒトでは十月十日かかります)。胚は、発生のほぼ全ての時期を通じて透明です。そのため、微分干渉顕微鏡という特殊な顕微鏡を用いれば、脳の中の一つ一つの神経細胞を生きた胚の中で観察することも可能です。
幼魚は2〜3ヵ月で生殖可能な成魚になるため(ヒトでは、楽観的にみても20〜30年かかります)、遺伝学的な実験を行うのに適しています。

 私たちの研究チームでは、このようなゼブラフィッシュの利点を生かして、魚の視覚中枢である視蓋や運動の制御に重要な役割を果たす小脳ができる仕組みや、運動神経細胞や感覚神経細胞が独自の経路に沿って神経軸索を伸ばすメカニズムを調べています。そのために、微量の組織からcDNAライブラリーを作製したり、運動神経細胞だけが光るトランスジェニック・フィッシュを作製し、それを用いて突然変異系統のスクリーニングを行うなど、最先端の分子遺伝学的技術を駆使して研究を進めています。

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研究室内


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図2東島伸一博士[科学振興事業団さきがけ研究員]との共同研究
-  ゼブラフィッシュを使って実際に研究してみると、ゼブラフィッシュとヒトの脳は、(大脳皮質の発達の程度の差には著しいものがありますが)、大変良く似ていることが分かります。一度でも網をもってゼブラフィッシュを捕まえようとしてみれば、彼らがどんなに賢くて人間的(?)な動物であるかがご理解いただけると思います。両者が数億年前に進化上異なる道を歩き始めた生き物であるとは信じられないくらいです。私たちは、自分たちの研究によって、ヒトと共通する脳神経系の分化の基本原理を知ることができるだけでなく、ヒトとゼブラフィッシュの脳が違う様になった本質的理由も含めて、これから知ることができるのではないかと期待しています。その意味で私たちは、このちっぽけな魚に大きな夢を託しながら、日々の研究に励んでいます。


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