理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.10(2000年12月号



脳科学はどこまで進み、私たちに何をもたらすのか

 
 

 理化学研究所 脳科学総合研究センター(BSI)は、1997年10月に設立され、3周年を迎えた。BSIはどのような構想に基づいて設立され、3年でどのように成長したのか。そして、「脳の世紀」ともいわれる21世紀、脳科学はどこまで発展するのか。脳科学分野の取材を多数行っているノンフィクション作家の立花隆氏とBSI所長の伊藤正男が、脳科学の現状と展望を語る。
言語機能は解明できるのか
立花隆氏(左)と伊藤正男 BSI 所長。立花氏の脳科学に関する一連の取材は、当時国際フロンティア研究システム長であった伊藤所長から始まった。脳科学の第一線を見つめ続ける二人の対談は、熱く進行した。
立花──これからできる予定の研究チームがいくつかありますよね。コミュニケーション機能研究グループ、アーキテクチャ研究グループ、ハードウェアシステム研究グループ。
伊藤──いちばん難しいのはコミュニケーションですね。
立花──コミュニケーションというのは、どういうことを考えているのですか。
伊藤──言語です。身ぶりも入れます。言語は、発足当初からやりたくてやりたくてしかたがないのですが、なかなか難しくて。
立花──先生は最近、認知機能の小脳制御モデルを言語系に拡張したということですが。
伊藤──モデルとしてね。
立花──先生に最初お会いしたとき、それまで小脳というのは運動機能と結び付けて考えられていたけれども、どうもそうではなさそうだ、言語機能を含めた高次機能に広く使われているようなんだ、ということをうかがいました。その話がどんどん広がってきていることがわかって、すごくおもしろいですね。
伊藤──人体を傷つけることなく脳の活動を測定できる fMRI や MEG など非侵襲測定によるデータが世界中でずいぶん増えています。
立花──それで、言語を使っているときに小脳が実際に働いていることがわかってくるわけだ。なるほど。
伊藤──かなり固まってきました。けれども、言語学というのは難しい。チョムスキー(*4)は「ヒトは多様な言語を持っているが、その元には共通 の普遍文法がある。そしてヒトだけが言語を持つのは、動物にはない普遍文法があるからだ」と言います。しかし、それだと動物の脳の研究からは接近のしようがない。  私たちはそうではなくて、動物から積み上げがあると考えている。チンパンジーには小さくても言語野の“芽”があって、ヒトで大きくなったというように連続して読もうとしているのです。しかし、チンパンジーに言葉を教えようとしてみんな失敗しました。
立花──それは、音声をつくる喉仏や口蓋の構造が、ヒトと違うからですよね。チンパンジーは音声言語は使えないけれども、手話や文字盤指示といった形で言語を使っていることを実証する研究は進んでいます。  今、人間の世界でも手話の分析が活発に行われています。いわゆるこれが手話です、という感じの手の形があるでしょ。ところが実際に使われている現場の手話というのは、手の形だけではなくて、もっといろいろなものを使う。表情や目線、手を動かす勢いや方向などです。手の形を単に言葉に置き換えただけだと情報量 がすごく少ないようだが、実際に使われている現場でのほんとうの情報量というのはもっともっと多い。手話は、非常に複雑な言語であるという分析結果 が出てきています。  つまり、手話は別の言語体系であるということがわかってきたわけです。そうすると、動物は人間が使うような形の言語は使っていないけれども、いろいろな形でのコミュニケーションをちゃんとやっているわけですよ。
伊藤──けれどもチョムスキーは、ヒトの言語機能で、普遍文法が突然に出てきたと考えている。それでは手がつけられないでしょ。
立花──ヒトの普遍文法の先祖のような形で、動物に共通の汎シンボル操作コミュニケーション能力みたいなものができていたからこそ、チンパンジーも手話なんかを覚えられるんじゃないかしら。
伊藤──普遍文法の生成まで踏み込みたい。これは究極的な願いの一つなんですよ。



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ツーフォトンで撮影したスパイン ラットの神経細胞の樹状突起と、その表面にあるスパインの蛍光写真。ツーフォトンレーザー顕微鏡で撮影された。(細胞機能探索技術開発チーム・宮脇敦史チームリーダーより提供)
神経細胞移植による治療
立花──「脳を守る」領域では、アルツハイマー病を克服する日が相当迫ってきたという感じがしますね。
伊藤──近いうちに薬が出てくるでしょう。βアミロイドというタンパク質が脳の中で増え出してから顕微鏡で見えるようになるまで10年。痴呆の症状が出るのにもう10年。合計20年くらいかかる。だから、βアミロイドが増え出したということを見つけて薬を飲ませることができれば、この病気はなくなります。  アルツハイマー病患者はどんどん増えて、現在では世界中で1,500万人を超えているでしょう。100歳超えたらアルツハイマー病にならなければ幸運と言ってよいほど起こりやすい。長寿社会になるほど増える一方です。なんとかしないと。
立花──自分の脳の神経細胞を取ってきて培養し、再び脳に戻すといった神経細胞移植は、ある程度可能になってくるでしょうね。アルツハイマー病でできるかどうかは別 として、脳のいくつかの病気では神経細胞の移植が実現するでしょう。
伊藤──田植えのように、神経細胞をポツポツと植えてね。神経細胞移植の理屈は、ずいぶん前から考えられています。
立花──神経細胞の体外培養技術もどんどん改良が進んでいますね。大阪大学の岡野栄之さんの研究室で見せてもらったのですが、神経細胞を培養して、レーザー光線でパッパッと分類してふるい分けるという技術も開発されています。あれを見たら、これまでと全然違う新しい世界が生まれつつあるな、と思いましたね。
脳科学を小学校の教育科目に
伊藤──「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」に続いて、最近もう一つ出てきた研究領域が、「脳を育む」です。脳を育てる。正常な脳の成長発達を助けることです。
立花──脳を育てるメカニズムというか、社会的なメカニズムは教育ですよね。それがおかしいから今、変な現象がいっぱい起きているのだと思うんですね。教育の中で早急にやるべきことは、理科の枠組みを変えることです。その中に脳科学という教科をつくり、小学校からきちんと教える。知る、守る、創るを全部含めて、今まさにここでやっているような柱に従って教える。そうすると、脳の科学者ももっと育ってきますよ。  大学では脳科学部をつくる。そこでは文学から、それこそ脳を創る領域どころか脳の使われ方や使い方の領域まで勉強するんです。そしたら脳科学は何でもやっているから総合大学になってしまいます。総合脳科学大学です。
21世紀最大の問題──こころの理解
伊藤──「脳を創る」領域は将来に期待がかかっているのですが、まだ未知数が多いですね。例えばパターンや動きをどうやって認識するのか、運動をどうやって制御するのかといった脳の仕組みはだいぶ理解できた。しかし、人間のこころに近い問題になってくると、どうなっているかまだよくわからない。うれしい、悲しいという感情は、どこかに神経伝達物質であるドーパミンやアドレナリンの閾値がセットしてあって、それより上に行くとうれしいし、下に行くと悲しいとか、そういったいうことは言える。だが、それをコンピュータやロボットに再現するのはなかなか難しい。
立花──それは「感情」の定義の問題がかなり大きいですね。
伊藤──そうですね。感情らしいことは再現できるのですが。
立花──人間のこころや感情というのは、結局はよくわからないですよね。
伊藤──主観が入ってしまうと、がぜんわからなくなります。でも、このごろ脳のことがかなりわかってきたから、今にも人間のこころや感情がわかりそうだと思う人が多くなってきましたね。  人間のこころや感情の理解は、やはり21世紀最大の問題です。いいところまで行くと思うのですが。
立花──先生もどこかにお書きになっていましたが、結局脳を知るというのは、人間の世界のすべてを知ることですよね。人間のすべてを知るだけではなく、社会から歴史からすべて含めて知ることですよね。  さらには脳の進化の歴史を考えると、生物史全体がヒトの脳にあるということになる。
伊藤──ヒトの脳は進化の頂点ですからね。

〈脚 注〉
*1 国際フロンティア研究システム 1986年に理化学研究所に設置された。未踏の領域における先端的基礎研究(フロンティア研究)を国際的、集中的、かつ流動的に行う組織。
*2 ポスドク postdoctorate fellow。博士号を取得後、正規の研究(教育)職に就く前の研究者を指す。博士研究員。
*3 先端技術開発センター 脳科学研究の基礎となる新技術創出等にかかわる研究推進を目的として設置された。新計測技術開発研究と生物学的新技術開発に大別 される。実験動物施設や共用機器・装置などを置くリサーチソースを併設。
*4 チョムスキー Noam Avram Chomsky。マサチューセッツ工科大学教授。1928年、アメリカ生まれ。理論言語学者。 対談写真撮影 大西成明

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