理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.10(2000年12月号



遺伝子から脳の病気を探る

病因遺伝子研究グループ
神経遺伝研究チーム
チームリーダー 山川和弘

はじめに
 街を歩いていて、手を前に合わせ常にもむような仕草を続けている車椅子の女の子を見かけたことはありませんか? おそらくその女の子はレット症候群という病気の患者さんです。レット症候群は10,000〜15,000人に1人、ほぼ女児のみに発症する疾患で、重篤な精神遅滞、特徴のある手もみ運動、自閉症などを特徴とします。この病気では1〜2歳頃まで一見正常に育ちますが、言葉を話し始める頃から知恵遅れが目立ち始めます。親にしてみれば、それまで育んできた愛情ゆえに、可愛い盛りの我が子の変化によけい胸を痛めることになるのでしょう。先日(2000年7月23日〜27日)軽井沢でレット症候群国際会議が開かれ、本疾患の研究を行っている私たちも招待されましたが、参加した患者さんの親は皆若く、家族間の結束と患者さんに対する愛情には非常に強いものを感じました。 -

IMAGE
画像をクリックすると拡大します。
図1 ダウン症精神遅滞候補遺伝子DSCAM。第21染色体上のダウン症精神遅滞責任領域に同定されたDSCAMは早い時期に発生する神経組織に発現する。強制発現させた細胞はDSCAMを細胞表面 に有し、発現した細胞同士が凝集する傾向を示す。
私たちと遺伝病・遺伝子病
 遺伝病はごく稀な病気で、自分にはあまり関わりのないものと思われる方も少なくないでしょう。確かに遺伝病の多くは、その一つ一つの発症頻度が1万人〜2万人に1人程度と比較的稀です。しかしながら、確認されているだけでも数千種類の遺伝疾患が存在することを考えれば、いかに多くの人が遺伝疾患に苦しんでいるか想像できるかと思います。さらに、ダウン症候群や先に紹介したレット症候群の患者さんは全く正常な核型や当該遺伝子を持った親からある一定の割合で生まれてきます(ダウン症では700人に1人)。これらは親から子へ遺伝せず、その意味で遺伝病ではありませんが、遺伝子の異常による病、遺伝子病と呼ぶことができるでしょう。これらを含めた多くの患者さんは社会の表(おもて)に出てくる機会が少ないために、私たち自身、病気の多さとその深刻さを実際ほどには認識することができないのが本当のところではないでしょうか。また、発症頻度が1万人に1人の劣性遺伝形式をとる疾患の場合、保因者は50人に1人となり、全ての遺伝性疾患を考えれば私たちは皆数十個以上の疾患遺伝子の保因者であるといえます。遺伝病、遺伝子病は全ての人に深く関わる問題です。
-


知恵遅れと遺伝子
 私たちの研究チームでは精神神経疾患原因遺伝子の同定とその機能の解析を目指していますが、そのテーマの一つが精神遅滞であり、現在ダウン症候群やレット症候群のプロジェクトが進行中です。ダウン症候群についてはご存じの方も多いと思いますが、最も頻度の高い精神遅滞の原因とされており、第21染色体が本来2本であるべきものが3本になることによって起こります。患者さんは精神遅滞の他に、先天性心疾患、消化器疾患、白血病などを併発します。1%弱の症例では第 21染色体の一部のみが3倍体となっており、症状と比較することにより、染色体のどの部分がどの症状の発症に重要かをある程度推定することができます。私たちは特に精神遅滞に深く関わるとされる領域からDSCAMという遺伝子を同定し、その機能が神経接着因子であることなどを明らかにしてきました(図1)。つい最近新聞でも報告されたように第21染色体はその全ての配列の解読が終了し、精神遅滞に深く関わるとされる領域には約20個、全体では225個の遺伝子を有することが判りましたが、DSCAMはその中でも最も大きい(834kb)遺伝子です。マウスでもヒト第21染色体に相当する第16染色体の一部が3倍体になったダウン症モデルが作られており精神遅滞に似た行動をとりますが、このマウスでもDSCAMは3コピー存在しています。私たちはこのマウスにおいてDSCAMの発現量 を制御することにより、この遺伝子が本当に精神遅滞の発症に関わっているかどうかを現在確かめようとしています。  冒頭に紹介したレット症候群では、つい最近(1999年10月)原因遺伝子がMECP2であることが米国の研究グループにより報告され、その成果 は学会・患者団体等に熱狂をもって迎えられました。私たちも日本人の患者でこの遺伝子に多くの変異が見つかること、さらには変異の種類と症状の重さに関係があることを見い出しています(図2)。この遺伝子にコードされる蛋白MeCP2は、メチル化されたDNA上の領域に結合し下流の遺伝子の発現を抑制します。現在までのところ、どの遺伝子がMeCP2により制御されるのか、また、実際いくつあるのかは判っていませんがその数はかなり多いと考えられています。すなわち、患者さんの脳においてMeCP2蛋白の量 が半減しているために多くの遺伝子が抑制をはずれ本来の量を上回り発現されることが、脳で何らかの異常を引き起こし精神遅滞の発症につながっていることになりますが、発症機構の解明はまだまだこれからといったところです。


画像をクリックすると拡大します。
図2 日本人レット症候群患者におけるMECP2遺伝子の変異。MBDとTRDの両機能ドメインに集中して変異が見られる。
てんかんと遺伝子
 てんかんは全人口の1〜2%が生涯を通 じて一度は罹患する疾患です。原因として頭部の怪我、脳卒中、感染症などがあげられますが、多くは遺伝子の異常によるものと考えられています。実際にイオンチャネルなど20を越える原因遺伝子が現在までに同定され、これらの解析は既存の治療法の改良や難治性てんかんの治療法の開発につながるものと期待されています。私たちも若年性ミオクローヌスてんかん、小児欠神てんかん、側頭葉てんかんなどの原因遺伝子の同定を、国内・国外の数百の患者さんのサンプルを使い、遺伝的連鎖解析などの手法を用いて進めています。  私たちのプロジェクトの一つに、症候性のてんかんであるラフォーラ病があります。ラフォーラ病はてんかん発作の他、痴呆、運動失調などの症状を示し、発症後10年以内に死亡するという非常に重篤な病気です。1998年に新規遺伝子EPM2Aが原因遺伝子として報告されましたが、最近私たちはこの遺伝子にコードされる蛋白がポリリボゾームと共存するdual-specificity phosphataseであること、疾患変異を持つ蛋白の細胞内局在に異常が見られることなどを明らかにしました。現在、マウスモデルの作成、基質の同定などにより、さらにこの蛋白の機能に迫ろうとしています。この病気の発症率は約2万人に1人と比較的稀ですが、この病気が属する進行性ミオクローヌスてんかんとよばれる一群の悪性てんかんには共通 する点も多く、ラフォーラ病の発症機序の解明は本疾患ばかりでなく他の症候性てんかんの発症機構の解明にもつながる可能性を持っています。私たちの研究が、この重篤で悲惨な病気の治療に結びつく日も近いはずです。 -
おわりに
 私たちが所属するBSIの大きな目標は脳の働きの解明であり、その目標に向かって知る・守る・創るの各領域の研究チームが研究を進めています。その中で脳を守る領域は病気を理解し診断・治療につなげることが主要な目的になっているため、脳の仕組みに直接切り込む研究になっていないとされる向きもあるようですが、脳の理解のために様々な側面 からのアプローチがあってよく、その中でも人の精神神経疾患の研究は非常に有効なものの一つであることは間違いありません。また、社会にどういった形で成果 を還元できるのかを常に心に留めながら研究を進めることも重要だと思います。私たちは、これら精神神経疾患関連遺伝子の同定と解析は疾患の診断と治療に結びつくばかりでなく、記憶・学習・情動の形成などの脳の機能の分子レベルでの理解、ひいては心を理解することにもにもつながるものと信じ、今後さらに異領域との共同研究を強化しBSIの長所を生かしながら研究を進めていきたいと考えています。

理研BSIニューストップ

理研BSIトップ
理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)
Copyright All Rights Reserved.