理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.13(2001年8月号)



「腹八分目」―食欲をつかさどる遺伝子情報

 細胞培養技術開発チーム
図1
 食欲調節という生物の最も大事な機能が、個体の意志と無関係に遺伝情報によってコントロールされていることを示しました。脳視床下部の領域は、体温や摂食など生命維持に重要な機能を果 たしています。「食欲の情報」は、末梢組織から血流にのって糖やインスリン、そしてレプチン(脂肪細胞由来因子)によってもたらされ、視床下部からは、脳神経伝達物質に「情報」が受け渡されていることがわかってきました。この機構にアセチルコリン性神経伝達経路がムスカリン性受容体を介して機能していることを初めて明らかにしました。この神経伝達物質アセチルコリンの情報を伝達している受容体の一つのムスカリン性受容体には、5種類の異なったサブタイプ(M1−M5)が存在し、いずれのサブタイプも脳内で発現していることが知られています。さらに、膨大な薬理学的解析から、その生理学的機能は解明しつくされたように思えました。しかしながら、特定のサブタイプに選択性を示す拮抗薬の特異性は絶対的ではなく、高濃度では特異性がなくなってしまうという問題があり、サブタイプの特異的な生理機能は依然として不明でした。
 そこで、細胞培養技術開発チーム(小川正晴チームリーダー)と、米国・国立衛生研究所の共同研究チームは、ムスカリン性受容体遺伝子おのおののサブタイプに対する遺伝子欠損マウスを作製し、サブタイプの特異的な生理機能を解析しました。  M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスは、ほかのムスカリン性受容体サブタイプ遺伝子欠損マウスにみられない特徴として、摂食量 の減少(約25%の食事量の減少)による体重の減少(約23%の体重減少)が認められました。さらに、成熟したマウスの体長は同じにもかかわらず、脂肪組織は顕著に減少していました(図1)。血液検査の結果 からは、脂肪組織の成分である血中レプチンが有為に減少していました。レプチンの減少は、「お腹が減っている」という末梢からの情報であるにもかかわらず、食欲がありませんでした。また、この遺伝子欠損マウスは、運動能力や代謝調節、さらに学習行動などの脳の高次機能の面 においても特別な異常はありませんでした。こうしたことは、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスの中枢神経系において、食欲の情報が遮断されていることを疑わせました。実際、M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスでは、脳内で食欲を増加させる神経伝達物質AGRPの投与にまったく反応せず、AGRP受容体が発現しているMCH神経細胞での情報の遮断が示唆されました(図2)。
 従来、ムスカリン性受容体サブタイプは、受容体タンパク質が非常に酷似しているため、それぞれのサブタイプに働きかける機能阻害薬開発が困難でした。受容体サブタイプの働きを遺伝子レベルで解析することにより、われわれはターゲットとなる受容体サブタイプの生体機構を明らかにしました。このような遺伝学的アプローチは、新規生理機能探索と共に目的に効く新薬の効率的な開発を促すことが考えられ、今後、さらに重要性が増すものと考えられます。


画像をクリックすると拡大します。
図2 脳視床下部における摂餌機能回路と食欲を促進する神経伝達物質を脳内に投与したときの摂餌行動 満腹時に脂肪細胞から分泌されるレプチンは、血流にのり視床下部弓状核に存在するレプチン受容体に結合し、メラノコルチンの合成と分泌を促進する。その結果 、食欲を増進させる伝達物質AGRP(agouti-related pedtide)と拮抗し、MCH(melanin-concentrating hormone)の合成や放出を抑えて摂食を抑制します。ここに示した神経回路の断線がM3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスのMCHニューロンで確かに起こっていることを機能的に解析しました。M3ムスカリン性受容体遺伝子欠損マウスでは、AGRPにまったく反応を示しませんが、神経回路の下流に位 置するorexinやMCHには、対照と同じように餌を摂取しました。この実験結果から、MCHニューロン機能不全が起きていることから「空腹」だという末梢からの情報が途切れてしまっていることが示されました。

M. Yamada, T. Miyakawa, A. Duttaroy, A. Yamanaka, T. Moriguchi, R. Makita, M. Ogawa, C.J. Chou, B. Xia, J.N. Crawley, C.C. Felder, C.-X Deng., J. Wess Mice lacking the M3 muscarinic acetylcholine receptor are hypophagic and lean. Nature, 410, pp207-212 (2001)



理研BSIニューストップ

理研BSIトップ
理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)
Copyright All Rights Reserved.