理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.15(2002年3月号)




脳型デバイス・ブレインウェイ研究グループ
グループディレクター 松本 元


 元々は物理が専門だった松本 元グループディレクター(GD)は、脳研究においても物理的な側面でアプローチを試みている。しかし、松本GDは生物を扱うときには、従来の物理は通用しないと言う。
 「20世紀は『物理の時代』と言われました。しかし、ここで言う物理が対象としていたのは、秩序が失われていく方向に行く系(=クローズド・システム)、いわば『死んでいるもの』が対象になっているのです。この閉じた系をもとに相対論や量子論などが発展してきました」
 さて、21世紀は『脳の時代』と言われて幕を開けた。従来の物理に代わって、どのような科学観が求められるのだろうか。
 「生き物とは時間とともに秩序ができあがる系(=オープン・システム)です。時間とともに目、鼻、口があるべき位置に作られていくわけですから、考えてみれば従来の科学の概念では説明できそうもない、不思議な現象なのです。従来の科学は、生物に対しては死んだ後、腐っていく過程を扱うことできますが、オープン・システムを理解することはできません」
 それでは新たな科学の系、オープン・システムとはどのようなものなのだろうか。
 「2つの異なる環境に系が同時に接しているのがオープン・システムです。例えば地球。地球は太陽と宇宙空間の2つの環境に挟まれています。太陽から熱エネルギーを得て、宇宙空間に放出するという流れがあることで生き続けるのです。人間もまた同じで、食事をして排泄することで生きています」
 しかし、物質やエネルギーの他に生物に必須なものがあるという。
 「それは『情報』の流れです。オープン・システムとしての脳は感覚器を使って各種の感覚信号を受け入れています。信号が入って、情報(行動)として出ていかないと脳というシステムはきちんと構成されない、生きていけない。脳が構成されないという意味は、脳というシステムが環境に適応してその情報処理の仕組みを作っていけないということです。」
 目の前にお茶があるとする。こんな溶液、こんな色。最初はこれが何を意味するのかわからない。そして飲んでみて初めて、飲むと言うことが、水というものが、生きるためにエッセンシャルな概念に変わる。情報として出力することによって、脳に入ってきた信号が意味づけられるのである。
 「脳を作っていくということは、情報を処理するための仕組みを作るということです。そのためにはまず、何のための情報かという目標を設定し、そのための行動をしないと、入ってきた信号の意味づけができません。そして目標を設定できなければ、脳は活性化できないのです」
 朝、なぜだか起きられない人がいるが、「今日、起きたらこうしたい」という目標がなければ当然、起きられるわけがないということだ。
 しかし、「現代社会では今日は起きてこうしたい、という目標設定は難しいかもしれません」と松本GD。その背景には脳が育つための本来の環境に反した「出来高評価」の社会環境の台頭がある。
 脳システムを構成する原理は、目標をまず設定して、この目標の達成のために脳から出力すること、である。目標をいかにして脳自身が設定するか。これが脳の成長に不可欠である。
 ところが、我々は幼い頃から、親や社会の規律を強制され、そのことに適応するように脳を作って育っている。このため、親や社会に従わないと、自分は生存できないと脳が学習する。この結果、他者依存性が強くなってしまうのだ。他者依存性が強いから、自分で目標設定ができない。そこで社会規範となっているものを追いかける。それにもかかわらず、目標を自分で設定したかのように思い、その目標を達成する仕組みを作る努力をする。しかし、仕組みがうまく作れないと、他者依存的性格から、人や状況など他に原因を求めるようになってしまう。
 「自分で目標を設定してアプローチすれば、たとえうまくいかなくても、目標を達成するためにそのアプローチがどういう意味があるかを教えてくれる良いトライアルだと思うことができます。失敗は失敗と見なしてしまった時に失敗なのです」
 しかし、今の社会は出来高評価重視である。脳システムで言えば出来高とは「情報の出力」。本来、出力は手段に過ぎず、その意味づけをするプログラムを作るためにチャレンジする過程が脳の目的である。
 「現代社会は目的に評価ポイントを置かず、手段に評価を置くという本質的な間違いを犯しています。チャレンジできない世の中。これでは脳が育つことはできないのです」
 この束縛は効率を突きつめてトップを目指す流れのある研究界にも当てはまるだろう。
 「評価制により研究者も結果を重視されています。しかし、すぐにうまくいく研究は、従来、知られていた考え方をうまく使えばできることで本当の意味での研究ではないのかもしれません」
 自分で問題設定をする。ある方法でやってみてできない。知っている可能性を網羅してもできない。どうしても自分としては解決できないと思われる問題に直面して、果たして問題設定が悪いのか、アプローチが悪いのかと散々悩む。この壁に当たってこそ、初めて研究のスタートラインに着けるのだ。
 「自然科学とは、自然の中の不思議な現象を見て従来の科学観を変えること、新しい哲学を作ることです。哲学観を変更せず、取り扱い方を変えただけでその現象が説明できるのであれば、新しい科学は創出できません。現在は、生物を科学するために、『科学の終わり、そして始まり』の時代と言えるのではないでしょうか」




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