理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) 理研BSIニュース No.19(2003年2月号)



海馬CA3領域のNMDA受容体は、記憶想起に
重要な役割を果たす


 RIKEN-MIT脳科学研究センター
 条件的遺伝子操作研究チーム

 RIKEN-MIT脳科学研究センター(RMNRC)の研究者が、初めて長期記憶の再生にかかわる遺伝子を特定した。マサチューセッツ工科大学(MIT)Picower Center for Learning and Memoryの所長であり、RMNRC研究員であるノーベル賞受賞者 利根川進氏は、自身の最新の発見が、アルツハイマー病の犠牲者を苦しめる記憶障害を克服し、中年の「年寄りの物忘れ」をなくす治療薬の開発につながるであろうと語った。
 利根川氏の研究グループは、記憶を構成する分子、細胞、神経ネットワークのメカニズムを探究している。同氏は、脳内の特定領域における特定の遺伝子をノックアウトした新しいマウス系統の作製を可能にする遺伝子テクノロジー開発の先駆者である。同氏とMITの共同研究者らは、これまでの研究で、遺伝子操作されたマウスを使用して、CA1と呼ばれる海馬領域内のNMDA受容体の遺伝子が長期記憶を形成するのに重大な役割を果たすことを示している。これらの研究で、利根川氏は、一般的な記憶に重大な役割を果たすことが分かっている海馬が遺伝子変異したマウスを作製して調べた。

記憶の再生
 長期記憶の形成は、五感のうちの1つを通じて情報が入力されることから始まる。我々は、絶え間ない情報の配列を記憶として蓄えている。記憶の大半は、潜在意識レベルにおいて脳内の細胞ネットワークに蓄積され、記憶を蘇らせるには、記憶ネットワークを活性化し、その蓄積された情報を意識レベル下に導き出すきっかけが必要である。「我々が記憶の内容を鮮明かつ詳細に次々に蘇らせるためには、非常に限られたきっかけだけで十分である。(この現象をパターン・コンプリーションと呼ぶ)なぜならそれは、記憶をしまい込んでいる神経細胞の回路のパターンの再活性化がごく限られた情報入力によって達成される、記憶再生に伴う細胞プロセスを表しているからである。」と利根川氏は述べている。
 海馬は3つの部分に分けられる。今回、利根川氏はCA3領域の神経細胞に注目した。この領域では、個々の細胞が、信号を別の細胞に送るだけでなく、信号を互いに送り返すことにより、いわゆる自己連想ネットワークで機能している。数学的モデルによると、神経細胞回路を改善することにより、このようなネットワークに格納されている記憶に、パターン・コンプリーションの目的で効率よくアクセスできることが示されている。これらの回路を通じて細胞間でやり取りされる活動により、入力された情報の中で失われた可能性のある情報を取り戻すことが可能になる。このように、ネットワークは形成された時に存在していた元の手掛かりの一部が与えられただけでも、完全な記憶を「穴埋め」したり再生したりすることができる。「人間は年を取ると、物忘れがひどくなると愚痴をこぼす。実際、彼らは多くの場合、記憶を蘇らせる能力が失われている」と利根川氏は語っている。「これは、思い出したいことが喉まで出かかっているのに思い出せない現象である。もっと多くのきっかけがあれば、記憶を思い出せることが多くなる。」アルツハイマー病の発症早期についても同様のことが言える。「アルツハイマー病患者は記憶を失っているわけではない。思い出すことができないだけである。」

マウスと記憶の目印
 実験では、マウスに記憶学習をさせた。プールの中のマウスからは見えないところに、水中に隠れた休憩所(プラットフォーム)を置いた。マウスは泳ぐことはできるが水の中は苦手なので、すぐに逃げ道を探し出そうとした。辺りを手当たり次第に泳いだ後、プラットフォームを見つけて這い出た。マウスは、水槽の周囲に置かれた目印をもとにして、向かうべき方向を認識できるようになった。
 この実験を1日数回、1週間繰り返したマウスは、次第にプラットフォームを探り当てることが容易になり、プラットフォームまで真っ直ぐ泳いでいけるようになった。マウスがプラットフォームの位置を認識した後、水槽の周りの目印をいくつか除去した。目印が1つだけになっても、正常なマウスはプラットフォームの位置を素早く簡単に思い出すことができた。しかし、海馬のCA3領域にあるNMDA受容体が変異したマウスは、目印が1つだけになるとプラットフォームを見つけることができなかった。これらのマウスは、4つの目印がすべて揃っている場合にしか、プラットフォームを見つけられなかった。

場所細胞欠損
 利根川氏は、この研究は分子レベルだけではなく行動レベルにおいても検証できたという点で画期的であると述べている。これら2つのレベル間の連携について検討を行うため、Wilson氏は数十の個々のニューロンの活動をリアルタイムでモニターする方法を考案した。海馬の深さに達する電極を用いることにより、研究者は被験マウスの脳内に記憶が形成される過程を実際に見ることができる。記憶はそれぞれが海馬に特有の活動パターンを形成する。場所細胞と呼ばれる個々の細胞は、それぞれ別の場所の記憶活性化に応じて発火する。
 こうした記録技術を用い、RMNRCのもう1人の教授であるMatthew Wilson博士、利根川研究室のポスドク研究員、中沢一俊氏との共同研究において、以前形成された記憶の部分的な手掛かりによる再活性化に対応する神経活動の特徴、すなわちパターン・コンプリーションを特定することができた。4つの目印がすべて揃った環境では、遺伝子変異マウスの場所細胞活動パターンは正常であった。しかし目印を取り除くと、遺伝子変異マウスの場所細胞の反応は、正常なマウスの場所細胞と比べて著しく低下した。反応の低下は、CA3領域の、部分的な手掛かりしか与えられない環境において完全な記憶をうまく想起できる能力が損なわれたことに起因するものであった。この結果から、記憶の想起が個々のニューロンレベルでどのように起こるのかを直接測定することが可能になり、これらの条件下で記憶を強化するための基礎がもたらされた。

重要な経路
 NMDA受容体の密度は、加齢により減少する。海馬のCA3領域は、アルツハイマー病患者の脳におけるプラーク形成に対して最も脆弱であることが知られている。「記憶の再生が分子レベルでどのように作用するのかを理解することは、今後医薬品を開発する上での基礎となり、これはアルツハイマー病患者にとって重要なだけでなく、年老いた人々が記憶や学習した内容を思い出す能力を長く持ち続けることにとっても重要である。」と利根川氏は語っている。

 

図1.変異マウスの海馬薄片の免疫染色:緑色は、遺伝子がノックアウトされたCA3細胞を表す。右側の赤色は、CA3内の抑制性介在ニューロンを表す。中央の組み合わせ写真で、緑色に染色された領域が赤色に染色された領域からほとんど切り離されているのは、ノックアウトがCA3内の興奮性錐体細胞に制限されていることを示している。


 
図2. モリス水迷路の設置:
不透明な水で満たされた(底が白い)プールを、4つ(2つだけ示されている)の明るく光る模様を目印として4つのスライドに吊るしてある黒いカーテンで囲まれた薄暗い部屋に設置した。パターン・コンプリーション実験では、記憶テスト時に4つの目印のうち3つが除去された。

Science, Vol. 297, Issue 5579, 211-218, July 12, 2002
Kazu Nakazawa, Michael C. Quirk, Raymond A. Chitwood, Masahiko Watanabe, Mark F. Yeckel, Linus D. Sun, Akira Kato, Candice A. Carr, Daniel Johnston, Matthew A. Wilson, Susumu Tonegawa



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