理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI) Brain Science Institute



精神神経疾患の原因解明に向けて

老化・精神疾患研究グループ
分子精神科学研究チーム
チームリーダー 吉川武男

はじめに
 私たちは精神神経疾患について研究をしていますが、脳あるいは心・精神の病というと一般の人からは神秘的に思われ、場合によっては忌み嫌われ敬遠されることもあろうかと思います。これは病が精神活動に影響を与えるばかりでなく、原因がよく分かっていないということにも由来していると思います。特に心・精神の病は、その原因究明の手がかりが乏しかったと同時に、ガンのように直接命に関わるものではないため(自殺を除いて)、これまで研究投資が十分でなかったことも大きいと思われます。  次世紀への課題として脳科学が大きく取り上げられていますが、精神疾患の原因解明は患者さんへの福音となるべきことは当然として、人格、思考、情動といった高次の精神活動の理解につながる可能性を秘めています。また逆に、ニューロサイエンス全体の進歩、ゲノムサイエンスの飛躍的発展の成果が精神疾患の研究にフィードバックできる状況が整ってきました。ここでは、これまでの精神疾患研究の歴史を概観してから、私たちのアプローチを紹介します。 -

研究の歴史
 神疾患は、症状や経過を中心にしていくつにも分類されていますが、中心をなすものは精神分裂病(以下分裂病と略す)と気分障害(躁うつ病、うつ病)で、私たちもこれらについて研究を行っています。分裂病は思春期以降から大体は30歳代までに発症し、幻聴や被害妄想などの症状に悩まされたり、引きこもりや自閉的生活態度を示すようになります(例えば村上春樹の小説「ノルウェイの森」の中で直子の症状として主観的にも客観的にも詳しく記載されています)。一度発症すると慢性的に経過することが多いのですが、決して珍しい病気ではなく、地理・文化に関係なく世界中でほぼ100人に1人の割合で罹患すると言われています。  幻覚や妄想に効く薬(抗精神病薬)が1950年代に偶然見つかり、その薬理作用がドーパミン(神経伝達物質の1つでパーキンソン病にも関係)2型受容体をブロックすることがわかり、患者さんのドーパミン伝達に関することがいろいろ調べられましたが、確定的なことは判明していません。ドーパミンは病気の直接の原因というより、間接的に関与しているのかもしれません。  もう一方の気分障害には、躁とうつを繰り返す躁うつ病やうつ状態を周期的に経験するうつ病があり、これらもありふれた病気で20歳代、30歳代以降に発症します。うつ状態の改善をもたらす薬(三環系抗うつ薬)も抗精神病薬に少し遅れて発見され、それらが神経伝達物質であるモノアミン(セロトニン、ノルアドレナリン)のシナプス間隙からの取り込みを阻害することから、モノアミン活性の低下がうつ病の原因という仮説が立てられ、いろいろ研究されてきました。しかしはっきりした原因が分かっていないのが現状です。
-- IMAGE
画像をクリックすると拡大します。
図1 ポジショナルアプローチの流れ


分子遺伝学的アプローチ
 私たちは、疾患関連遺伝子(感受性遺伝子)の同定を研究の目標においています。分裂病や気分障害の発症因子として、何らかの遺伝子が関与していることは疫学、その他の研究から示唆されています。手がかりがはっきりしない疾患の遺伝子に迫る方法として、図1のようなポジショナルアプローチがあります。これは、疾患の家系を収集して染色体上にくまなく分布しているマイクロサテライトマーカーをタイピングしていき(図2)、連鎖解析という数理統計的処理を施すことにより、病因遺伝子がのっている可能性のある大まかな染色体部位を検出するという作業から始めます。私たちは患者さんやそのご家族にご協力いただいて、分裂病の家系を約130、総勢400名弱集め終わり、現在染色体全部を視野に入れてマーカーのタイピングをしています(全ゲノムスキャン)。  これと平行して、全国規模の分裂病連鎖解析共同プロジェクトの一員として別の家系パネルをタイピングしていますが、両家系パネルは適する数理解析方法が違うので、相互補完的な結果が得られることを期待しています。躁うつ病に関しては日本での家系収集はこれからですが、アメリカでの連鎖解析で連鎖が検出された染色体18番短腕領域から候補遺伝子を同定しており、現在遺伝子改変動物の作成も含めて検討しているところです。

--
画像をクリックすると拡大します。
図2 マイクサテライトマーカータイピングの例


画像をクリックすると拡大します。
図3 FRETテクノロジーによるDUSP6geneミスセンスのタイピング
--  この他の方法として、機能的候補遺伝子あるいは連鎖領域上の位置的候補遺伝子を取り上げ、突然変異スクリーニングをして遺伝子の変異(多型)を検出し(この場合大抵はSNPs:single nucleotide polymorphismsである)、その多型が病気に有意に関連しているか調べていく候補遺伝子アプローチも積極的に行っています。現在解析中のいくつかの遺伝子で、興味ある多型が見つかってきています。なお、SNPsを迅速に正確にそして安価にタイピングする方法は現在も改良・発展段階にありますが、私たちは最近 FRET(fluorescence resonance energy transfer)法を試み、簡便で信頼のおける方法であることが確認できたため SNPs タイピング法の選択肢に取り入れています(図3)。  図1に示した手順は、遺伝形式が単純なメンデル遺伝疾患に対しては確立された有効なアプローチでありますが、このカテゴリーに属する疾患としてある種の家族性てんかんと先天性の聴力障害についても現在精力的に解析を進めています。

動物モデル
 精神疾患の動物モデルには、動物の脳機能と人間の「精神」を同一水準で論じることができない難しさがあります。しかし、うつ病についてはうつの症状が行動の減退という形で動物に再現されやすいこともあって、いくつかのモデルが昔から使われています。あるモデル(テスト)を A とすると、テスト A に感受性の高いマウス種 F0-A と感受性の低い(耐性のある)マウス種 F0-B を見つけ、それらを親にして孫の世代(F2)を作ると、F2の個体は F0-A と F0-B の遺伝子を様々な割合で持ち、テスト A に対する感受性も様々となります。  実際に500匹以上の F2を作り、表現型(テスト A に対する感受性)を調べたのが図4です。F2の各個体を全ゲノムスキャンし、表現型と対応させていくことによりテスト A に対する感受性を支配している遺伝子の位置がわかります(QTLマッピング)。このような動物からのアプローチも取り入れ、人間で「うつ病になり易さ」に関係している遺伝子の手がかりを得ることも模索しています。
-- IMAGE
画像をクリックすると拡大します。
図4 2系統のF0(F0-A,F0-B)マウスおよびF2マウスの表現型の分布
おわりに
 精神疾患が脳の病気であると認識されたのが1861年(Wilhelm Griesinger)、躁うつ病と早発性痴呆(後の分裂病)が区別されたのが1896年(Emil Kraepelin)、早発性痴呆の主症状が認知と思考の障害であることに注目して精神分裂病と名付けられたのが1908年(Eugen Bleuler)。それ以来約1世紀が過ぎましたが、病因解明はなかなか進みませんでした。現代の目で見ると、精神疾患というのは同じ病名でも原因は様々です。精神疾患は、複数の遺伝子と環境要因が相加・相乗的に作用して初めて発症する複雑遺伝疾患で、糖尿病やアレルギー、高血圧などと同じように多因子疾患に属します。多因子疾患の分子遺伝学的解析が現代生物学の大きな挑戦であると同時に、身体疾患のように適当な生物学的マーカーがないという困難さが精神疾患の研究には加わっています。私たちは悲観も楽観もせず、謎を解きほぐす努力しています。

理研BSIニューストップ

理研BSIトップ
理化学研究所脳科学総合研究センター(理研BSI)
Copyright All Rights Reserved.