理研BSIニュース No.23(2004年2月号)

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特集

神経蛋白制御研究チームのメンバー

私たちの「人生時間」とは何か?

神経蛋白制御研究チーム
チームリーダー 西道 隆臣


世の中には私たちの五感によって直接的に知覚しやすいものとそうでないものがある。たとえば物理学において、ニュートン力学は何となく感覚的に受け入れることが出来ても、量子力学ははるかに難しい。後者を理解する方が、より多くのロジックを積み重ねる必要があるからだろう。生物屋である私が、かつてシュレディンガーの波動方程式を瞬間的にでも理解できたと思ったときは、高級なロジックの多次元空間を気持ちよく泳いでいるような快感を味わった。しかし、それからずいぶんと時間がたってしまった今は、基礎から勉強し直さなければ、全く何のことか解らないだろうと思う。


興味深いことに、人間が物理学を学習する過程は、大筋で、物理学の研究の歴史と一致している。そしてある時点で気がつく、感覚的に最も受け入れやすいニュートン力学の方程式は、実は、物理学全体のより普遍的な立場から見れば、ある限定的条件においてのみで通用する近似式に過ぎないということを。この経験から得られる教訓は「真実は、目に見えにくいもの(五感によって直接的に知覚しにくいもの)の中にこそある。」ということだと、私は思う。そして、この教訓は、私の研究スタイルの基本骨格の一つである。


さて、生物学上の「時間」についても同様のことがいえる。通常、我々が現在から過去に向けて知覚できる時間は、秒~数年(あるいは数十年)だろう。現在から未来にかけては、秒~年ぐらいだろうか。この範囲を超えた時間は、自身の知覚に頼って直感だけで把握しようとするのは難しい。実際、今日の脳科学の基礎を作った生理学では、1000分の1秒(mS)単位の測定が可能となって神経伝達の本質が解明されていった。この時間を短くする(時間分解能を向上させる)ことについては、基本的に技術的問題をクリアすれば済むことであるが、逆はそう簡単には行かない。


「逆」とは、長時間を要する生命現象、すなわち、「老化」を対象とする科学である。ことに我々の研究テーマである「ヒト脳の老化」の時間スケールは、大体60年~100年であるので、(倫理上の問題は別にしても)厳密な意味での実験科学の直接的な対象とはなりえない。蓋然性のあるロジックとその証明となる実験事実を積み重ねながら、「脳老化の本質は何か?」という問いに少しずつ迫るしかない。この点が、老化研究が発生研究とは最も異なることだと思う。もう一つ異なる点は、発生過程は進化の過程である程度の蓋然性のある淘汰を経て形成されたのに対して、(現在我々が研究対象とする)老化過程は、かなりの部分が、文明の発展による寿命の伸びという人工的要因によることだろう。つまり、老化研究においては、一見もっともらしく響く合目的ロジックはロジカルではない場合が多いということになり、我々の「人生時間」の実体を知ろうとすることは、海図なしで航海に出るような冒険であるといってもよいだろう。そして、人間の老化を研究する我々自身が人間であり、なおかつ、研究に最も集中できる時期は自ら老化を完全に体験する時と明らかに異なるので、60~100年という我々の人生時間は、我々にとってきわめて絶対的な固有領域である。


さらに、脳の老化は、その他の臓器における老化とは根本的に異なることがある。それは、神経細胞は分裂後細胞であるので、基本的に細胞分裂によって老化過程に対処することが出来ないということである。したがって、通常の体細胞の老化研究の過程で明らかにされてきた「細胞分裂の有限性におけるテロメアの役割」等の知見が、あまり役には立たない。そもそも、脳の老化は個体としての寿命が延びてきたことによって顕在化したものであるので、全身性の老化に強く影響を与える因子は脳老化に対して特異的なものとはなりにくい。したがって、数十年にわたって個々の神経細胞を生存させ続ける固有の品質管理機構の存在がきわめて重要になってくる。ただ、後述するように、神経再生の観点から、神経幹細胞からの神経分化は看過すべきものではない。


具体的に、「ヒト脳の老化」を研究するに当たって用いられてきた最もオーソドックスな方法は、若年の脳と高齢の脳の機能や構造を比較することである。これによって莫大な知識が蓄積されたが、この方法自体はいわゆる現象論的であるのでこれだけで因果関係の樹立は難しい。もう一つの方法は、加齢を危険因子とする神経疾患の機構を解明することによって、脳老化の実体に迫ろうというものである。厳密には、ほとんど全ての神経疾患において加齢は危険因子であるが、患者数の多い疾患ほど普遍性の高いことはいうまでもないだろう。その意味で、アルツハイマー病は圧倒的に突出しており、詳細な説明は避けるが、実質的に「脳老化の終末像」といってよい。アルツハイマー病と比べると患者数ははるかに少ないが、パーキンソン病やポリグルタミン病も加齢を危険因子としている点では似ている。


このような方法論を背景に、1990年前後から今世紀初頭にかけて決定的な進歩があった。これらの疾患それぞれに家族性(遺伝性)のものがあり、多くの原因遺伝子変異が同定されたことである。その結果、初めて、これらの疾患発症のメカニズムにおける因果関係の樹立(病理学的知見の意味付け)が可能となったわけである。しかも、家族性の症例と孤発性(明確な遺伝性が認められないもの)の症例の病理と症状に多くの共通点が認められることから、これらの遺伝子変異の解析はより普遍的な意味を呈することとなる。これまでに発表された恐らく数万報に達する論文から得られる結論を単純にまとめると、「脳内にタンパク質が正常ではないコンフォメーションで大量に蓄積すると、神経機能に異常が生じ、最終的に神経変性に至る」ということになる。しかも、このタンパク質異常蓄積は、ほとんどの正常人において加齢に伴って生じる(多くのヒトは40代から60代にかけて定常量が増加し始める)。その結果として、85歳以上ではほぼ二人に一人がアルツハイマー病あるいはその前段階とされる軽度認知障害に罹患するといわれている。


表1. 脳老化研究の課題
  1. なぜ加齢に伴って脳内のアミロイドβペプチドの定常量が増加し、数十年のスパンで蓄積してゆくのか?」を解明すること。
  2. 「どのような機構を介してアミロイドβペプチドの蓄積が、神経機能不全やタウタンパク質の蓄積そして神経変性を引き起こすのか?」を解明すること。
  3. 上記の1と2を明らかにした上で、アルツハイマー病の発症前診断を確立すること。
  4. 上記の1-3を明らかにした上で、予防的治療法を確立し、さらに、対症療法を改善すること。

決して悲観的な意味ではなく、文明の産物である我々の「人生時間」とは、脳にとってはアルツハイマー病発症に至る時間といってもよい。そして、このことは、むしろ、孤発性アルツハイマー病の原因を確定した上で、発症を事前に予測し、予防的治療を行うことによって、我々の人生時間ははるかに豊かなものになることを期待させる、何しろ時間は沢山あるのだから。そのために克服するべき基本的課題を表1にまとめた。


第1の課題について、1990年代は、多くの研究者がアミロイドβペプチド(Aβ)はどのように作られるか(合成系)についての検討を行い、家族性アルツハイマー病の第一義的原因としてのAβの役割が確定した。私自身このことを確認する研究に関わったが、アルツハイマー病の大半を占める孤発性の場合は、家族性とは異なる機構で蓄積することを予想した。一般に物質の定常量を決めるのはその合成速度と分解速度であるが、分解系についてはほとんど手がつけられておらず、我々が真正面から取り組む最初のグループとなった。その経過と成果については、他稿で詳しく記載してあるので、簡単に表現すると「脳内ではタンパク質分解酵素ネプリライシンがAβを分解しており、加齢に伴うネプリライシンの活性低下がAβ蓄積の原因となりうると同時に、ネプリライシンの活性を調整することによって脳内のAβ定常量を制御することが出来る」ということになる。特筆すべきは、当初我々の報告を全面否定していたハーバード大のDennis Selkoe(アルツハイマー病研究の最著名人といってよいだろう。2000年の国際アルツハイマー病学会では全面対決することとなった。)が、ついに納得して、ネプリライシントランスジェニックマウスを作成し、最近、我々の結果を支持する報告を行ったことだ。第4の課題とも関連するが、我々はすでに実験的遺伝子治療に成功しており、これらの成果は現在水面下で創薬へと発展されつつあり、数年後に臨床応用される可能性もある。


第2の課題については、一見、通常の細胞生物学的手法で解決できそうに見えるが、実際の病態とは時間のスケールがあまりに異なるので、かなり難航している。やはり我々の「人生時間」の意味を考慮する必要があるのだ。細胞内カルシウム濃度上昇、タンパク質リン酸化、ストレス応答、タンパク質品質管理異常、等々様々の候補があがってきているが、これらにおいてもタンパク質分解酵素は深く関わっている。私たちは、この課題についてタンパク質分解酵素の作用解析や動物モデルからアプローチしている。ことにカルパイン(カルシウムによって活性化される細胞内プロテアーゼ)研究については、過去から培った実績があるので、今後も世界をリードすることが出来るだろう。


一方で、私は、アルツハイマー病とある種の精神疾患との類似性にも注目している。たとえば、うつ病では記憶力や認知能力が低下し、ストレス応答などが深く関わっている。また、抗うつ剤が効果を発揮するためにはある程度の長期間を要することから神経再生の重要性が示唆され、神経成長因子の関与が考えられている一方で、アルツハイマー病において特定の神経成長因子が低下していることが解っている。脳をシステムとしてとらえその老化を解明する上で、精神疾患研究は多くのヒントを与えてくれる。この意味で、私たちが属するグループに二つの精神疾患研究チーム(吉川チームリーダー・加藤チームリーダー)が存在することは、「知覚しにくい何か」を捉えるために天啓的な意義があるような気がする。


なお、加齢が危険因子となるもう一つの主要な痴呆症としての血管性痴呆については、本稿では割愛した。この病態も我々の研究のターゲットとなっており、その成果は別の機会に紹介したい。


第3の課題については、全世界的に多くの研究者が莫大な研究費を使って挑戦してきたが、今までのところは満足な成果は上がっていない。第一第二の課題の成果をもとに演繹的に迫る方法、あるいは、ケースコントロール的比較検討から帰納的に迫る方法があり、我々もいくつかの共同研究を行っている。もう一つは、動物モデルから迫る方法がある。今のところアルツハイマー病の病理を完全に再現する動物は存在せず、これが成功すれば、以上三つの課題が一気に解決する可能性がある。動物モデルに関する研究はリスクが大きいが、マウスの遺伝子改変によってこれを達成することはリサーチコミュニティー全体の夢である。マウスモデルを作成するということは、生物学的蓋然性を持って、ヒトの「人生時間」を1-2年というマウスの「生物時間」に変換することでもある。


第4の課題へのアプローチは、以上の課題の克服を目指す以外に、疫学的な研究から多くの示唆が得られている。これは、実験科学者である我々の手のおよばない臨床医学の現場が情報の発信源である。この意味でも基礎と臨床が互いにフィードバックして連携することは、非常に重要だと思う。幸い私は、いくつかの大学医学部から、非常勤講師や講演の依頼を受ける機会に恵まれ、これが大変よい勉強になっている。また、理化学研究所の伝統を鑑みれば、産業界との連携は、謙虚に遂行すべき権利と義務である。私の知る限り、事務方のバックアップが理研ほど素晴らしいところはない。このことは、理研研究者の誇りの一つであると思う。


今後、以上の4つの課題に対する答えは、それぞれの課題へとフィードバックされ、淘汰を経て、最終的に蓋然性のある事実をもとに互いに整合性のある体系が作られてゆくだろう。これだけで「脳老化学」全てが解明されるわけではないが、大きな柱となることは間違いない。


私が我々の「人生時間」について深く考えるようになったのは、40歳前後のことだったと思う。そのころ、経験的な事実として、中年は若者を、高齢者は中年を理解できるが、逆は、観念的にしか推測できないという単純な事実に気がついた。(病気についても同様だ。)我々の「人生時間」は、まさに、「目に見えにくいもの(五感によって直接的に知覚しにくいもの)」そのものであると実感して老化研究にのめり込んだ次第である。


最後に、改めて、近代物理学史を見返すと、英国の王立研究所やドイツの物理工学国立研究所・米国のプリンストン高級研究所などが突出した役割を果たしている。BSIも脳科学において、これらの研究所の物理学への貢献と同等あるいはそれ以上の成果をあげる志を根底に有するべきだと思う。そのためには、マスメディア(≒官僚≒納税者(≒時として一流ジャーナルの編集者))に喜んでいただけるような解りやすい成果をあげる一方で、たとえ複雑であっても蓋然性のあるロジックを積み重ねることによってのみたどり着けるような真理を求め続けなければならない。サイエンスにおける純粋科学主義(純粋に科学的興味のために研究すること)vsアカウンタビリティー(成果を社会に還元することを目的として研究すること)は、本音vs建前として区別すべきものではなく、あくまで両立を目指すべきものであり、それは可能だと私は思う。これは、「脳を守る」を含むすべての脳科学研究における永遠の課題だろう。



文献 : Nature Med., 6, 143-151(2000); J. Biochem., 128, 897-902(2000); J. Biol. Chem., 276, 21895-21901(2001); Science, 292, 1550-1552(2001); J. Biochem., 130, 721-726(2001); Neurosci. Res., 43, 39-56(2002); J. Neurosci. Res., 70, 493-500(2002); Abeta Metabolism and Alzheimer's Disease. (Saido, T.C. ed., 2003), Landes Bioscience (Georgetown, Tex (www.eurekah.com)); Science(SAGE-KE), http://sageke.sciencemag.org/cgi/content/full/sageke; 2003/3/pe1(2003); Lancet, 361, 1957-1958(2003); J. Neurosci., in press(2004); 実験医学増刊号 タンパク質の修飾と分解研究. 編集 田中啓二・西道隆臣(2004), 羊土社.


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