BSI脳科学中央研究棟のN507号室は奇妙な場所です。虫の苦手な人は、この部屋には入らないほうがいいでしょう。なぜなら、この部屋は50万匹を超える数のハエでいっぱいだからです。しかし、私たちのラボではみんなハエが大好きです。それはなぜかというと……。
1907年、ニューヨークにあるコロンビア大学で働いていた生物学者トーマス・ハント・モーガンは、ショウジョウバエを集めるため、研究室の窓の出っ張りに1本のバナナを置いてみました。彼の捕えたハエは、台所に溜まってしまった生ごみに集まってくる、皆様にお馴染みの小バエです。彼はこの小バエを使い、生物学の革命を引き起こすこととなった一連の実験を行いました。彼は、ハエたちに遺伝性の『変化』を起こしてみようと試みたのです。このため、彼はハエを温めたり、酸やアルコールを注入したり、X線に被曝させたりと、いろいろと試行した後にそのハエを繁殖させ、子孫を研究に供しました。 3年が経ち、数千数万もの赤い眼をした縞模様の同じハエを見続けた後で、彼はようやく1匹だけ他とは異なるハエを見つけました。そのハエは白い眼をしていたのです。この発見と、その後に見出された数種類の変異体の発見により、モーガンは染色体遺伝理論を確立し、1933年のノーベル医学・生理学賞を受賞することになります。そして、私たちのラボでは今日でも、この白い眼の変異体を利用して研究を進めているのです。
モーガンが1本のバナナを窓板に置いて以来100年間、ショウジョウバエは生物学研究の最前線に立ち続けています。このハエのゲノムは、ゲノム全体のシーケンシングを行う水先案内人としても使用されていました。 2000年3月に公開されたゲノムも、ショウジョウバエのものでした。これは、人間のゲノムシーケンスの公開より1年も前のことです。
BSIの研究対象はもちろん脳ですが、このショウジョウバエは、一体どのようにして脳の研究に寄与できるのでしょうか。ハエの脳は小さく、ニューロンの数は約10万程度しかありません。一方、人間の脳には約1,000億ものニューロンがあるのです。しかし、ハエの脳の解剖学的構造は複雑であり、ハエ自体も多くのさまざまな行動を示します。その中でも私のお気に入りの行動の一つは、雄ハエが雌ハエの気を引こうとするアピールダンスです。両者を一所に置くと、ほんの数分で、雄ハエは雌ハエの周りで羽を一枚ずつ振るわせながら、交尾のためにダンスを始めるという光景を楽しむことができます。それはまるでナイトクラブで女性の気を引こうとする人間の行動と、気味が悪いほど様子が似通っています。また驚くべきことに、脳のたった数個のニューロン内の1個の遺伝子の発現を変化させるだけで、雄には雌のことを忘れさせ、瓶の中で雄同士の追っかけっこを始めさせることもできるのです。
複雑な神経系は多種多様なニューロンを内蔵しており、ニューロンの個々の種類は、特徴的な形態を備えています。これら各種のニューロンの形態の多様性、そして美しさは、私たちのラボに二つの疑問を投げかけました。第一はこのように多様な形態(樹状突起)はどのようにして発生したのかという疑問で、第二はニューロンの形態と機能の間には、どのような関係があるのかという疑問です。私たちは、ショウジョウバエの幼虫の末消神経系知覚ニューロンの研究を行いました。これらのニューロンの形態はいくつかの種類に分かれ、観察や遺伝子操作も容易なので、私たちの疑問に答えるためには極めて優れたシステムです。さらに、これらのニューロンの形態に小さな変化を引き起こすだけで、幼虫の移動の開始と停止の頻度、および移動方向変更の頻度などの行動を変化させることができます。
私たちは、このラボのハエが人間の脳に対する理解を深める助けになることを期待しています。脆弱X症候群やアルツハイマー病などの多くの神経病において、ニューロンの形態が変化しています。私たちは、このような形態変化が疾病の病状にどのように関連しているかを知りたいのです。ショウジョウバエには約14,000の遺伝子があり、近年の研究によれば、人間の疾病に関連した全遺伝子の約75%はハエにも存在しています。 1980年にエリック・ヴィーシャウスとクリスチアーネ・ヌスラインフォルハルトはショウジョウバエスクリーニングを行い、現在では脳の発達と機能を含む哺乳類の諸過程にとって、本質的に重要であるとされているシグナル経路に係る大多数の遺伝子を発見することになりましたが、彼らも1995年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。ショウジョウバエは遺伝子を判別する上で優れたモデルシステムであることが実証されており、これらの遺伝子の機能は哺乳類にも存在しているのかもしれません。したがって私たちは、マウス脳でハエと相同の遺伝子が脳の発達と機能に及ぼす役割の研究も行っています。
読者の皆さんには、台所を舞っているこのかわいいハエをもっとよく見て欲しいものです。このハエはこの100年間の生物研究で開拓者的な役割を演じてきたのですから。そしてBSIでも、ニューロンの形態がどのように発生したのか、ニューロンの形態機能の変化がどのような症状を見せるのか、そしてこれは神経病とどのような関係があるのか、といった課題のより深い理解を助けてくれているのです。
ラボのメンバー。後列左から2番目が筆者。