理研BSIニュース No.36(2007年6月号)

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特集

Cees van Leeuwen

視覚に必要な柔軟性

計算論的神経科学研究グループ
認知動力学研究チーム
チームリーダー
Cees van Leeuwen


図1:多重安定の図形(a)、双安定の図形(b)
(a) のパターンを凝視し続けると、黒い切片がさまざまなグループに分かれて見える。
(b)のパターンを凝視し続けると、立方体の向きが変化する。


図2:一般的な安定したアトラクタ(a)と脆弱なアトラクタ(b)
さまざまなレベルの吸引領域は、安定したアトラクタA1やA2を取り囲んでいる。それぞれの領域の大きさは、ある特定の刺激S0;1、S0;2、S0;3などにより推定が可能であり、A1やA2を取り囲んだ閉曲線として表現される。一旦、いずれかのアトラクタに状態が収束した場合、入力に変化が生じない限り、その状態が持続する。一方bでは、各吸引領域は他方が一方を取り囲んだようにはなっていない。それゆえ、ごくわずかな外乱によってアトラクタから逃れることもある。これにより、たとえ入力に変化が無い場合でも、状態が複数のアトラクタ間を遷移することができる。

当研究チームでは「複雑系」のアプローチを用いて、視覚系における情報処理の仕組みを調べています。視覚情報は静止画像のようなものではなく、時間経過に伴って発展するパターンであると捉えられます。目は絶えず動き、それにより視覚系に入力される刺激が変化します。また、たとえ目が動かず、外部からの情報が本質的に変化しない場合でも、我々に見えるパターンは時間の経過とともに大きな変化を示します。この現象のもっとも顕著な例としては、いわゆる多重安定図形や多義図形(図1)観察時の知覚交替が挙げられます。実際のところ、これらの図形は安定性は有しておらず、多重安定または双安定という呼称は誤解を招きます。これらの実例が示す通り、入力(例えば、一連の特徴の集まり)が入ると安定状態に達し、出力は時間が経過しても変化しないシステムの視点から知覚機能を理解することは困難です。


当研究チームは、知覚を形成する神経活動に加えて知覚経験における時間の役割にも興味を持っています。特に関心を寄せている問題としては、時間的に正確に調整された神経活動電位のパターンにより情報がどのように表現されているのか(Gong & van Leeuwen, 2007)、そして時間の経過に伴って同期した神経活動のパターンがどのように発展するのか(Ito et al, 2007)という神経活動に関する二つの側面が挙げられます。これらの時間的なパターンは絶えず変化しており、この性質を「遊走性(wandering)」と呼ぶことにします。遊走性を備えたダイナミクスは、入力が入ると視覚情報系が安定した出力状態に達するという、従来の概念とは大きく異なります。


我々は、視覚系のモデル化という取り組みにおいて、このような「遊走性を備えたダイナミクス」を理に適った手法で取り込むことを試みています。理に適った手法を実現するには、視覚系における情報処理の目的(どのような情報を処理するのか、処理の結果はどのようなものであるのか、また、この過程を確実に実行するための最善の方法はどのようなものなのか)を理論的に記述することが必要であり、さらに視覚信号についての既知の物理的な制約条件下において、所定の目的を最良の方法で達成するアルゴリズムも必要となります。


認知科学の歴史において、この種の問題を解決する際には、計算理論が大きな役割を果たしてきました。とりわけ、David Marrによる研究が大きな影響を及ぼしてきましたが、最近になって神経回路モデルや動的システムの理論など対抗するアプローチが台頭してきたため、その影響力は小さくなってきています。これらのアプローチは、対処療法的で、一時しのぎ的な方法に依存する場合が少なくありません。しかし、動的なシステムについては、数学で記述された制御理論の枠組みで理に適った方法を採用することが可能です。数学的に記述された制御理論は、これまでは主に機械工学におけるさまざまな人工システムの分析や設計のために用いられていました。事実、この理論によるこれまでの最も重要な成果である線形システムの領域における安定性、最適性、不変性定理により、制御理論は工学の分野において広く受け入れられてきました。「サイバネティクス」という表題の数学的に記述された制御理論の基礎を築いたNorbert Wienerは、当初は生体系機構に関して精神を含む、より広い理論の構築を想定していましたが、この分野においては建設的な成果を十分に獲得することはできませんでした。


とりわけ、不確定性が存在する中で非線形パラメータによる記述を必要とし、かつ対象のダイナミクスが不安定性を有するような動的システムの設計を行うための成果が不足していました。しかし最近になって、これらに関するいくつかの成果が当研究チームで得られました(Tyukin, Prokhorov, van Leeuwen, 2007; Tyukin, van Leeuwen, 2006; Tyukin, Tyukina, van Leeuwen, 2007)。これらの成果を視覚パターン認識という課題に適用した場合、直観に反して、不変性を有し、かつ頑強性を有したパターン認識のシステムは対象の近傍において安定性を欠くという結果を示しています。このような不整合性は、たとえそれが些細なものであっても、外部から与えられるノイズが存在しない場合でさえ、システムが表現しているものが、あるものから別のものへ変化してしまう可能性がゼロではないことを意味しています。つまり、パターン認識をモデル化するための理に適った手法とは、現実のシステムがなぜそれを実現できるダイナミクスを備えているのかを明らかにするものとなります。


図3:二光子顕微鏡による対象物(スパインを有した樹状突起)の測定(実験データ提供:Sergei Grebenyuk、Alexey Semyanov)。図左は対象物上の走査線の位置を表示(赤い線)。図中央は光退色の効果によって、時間の経過とともに測定値がどのように変化しているのかを表示(サンプルaおよびb)。図右は測定の対象がスライス内で4ナノメートル縦方向に移動することによる測定値の変化を表示(サンプルcおよび d)。

開発した手法は、不安定性や相当な不確実性が問題となるものであれば、パターン認識以外の問題にも利用することができます。その応用例としては、電子製品や自動車向けの非線形システムがあります。また、より直接的に脳に関係した、いくつかの興味深い応用例もあります。その一つは、二光子顕微鏡によって得られた画像に基づいて高速な樹状突起形態変化のダイナミクスについての解析で、これは神経回路メカニズム研究グループのSemyanov研究ユニット(Alexey Semyanovユニットリーダー)と共同で行っています(図3)。


このプロジェクトでは、スパインの直径に加えて樹状突起の急激な変化を追尾することが必要とされています。また同時に、光退色(photo bleaching:光によって誘発される光感受性物質の光感受性の消失)や、スライス内における測定対象のわずかな物理的な移動を受けないような、ある種の不変性を確保する必要があります。図3のデータは、特定の走査線に沿った強度の値を時系列で示したものです。これらの効果の数学的な記述には、不確定な変数(染料の濃度、位置など)の非線形パラメータによる表現に加えて、同一データを多重表現性を仮定する必要があります。したがって、従来の安定性に基づく手法は線形性と一意性を前提としているために適用することはできません。一方、遊走性を備えたダイナミクスを用いれば、さまざまな要因を含んだ測定データから、目的とする情報を取り出すことができます。


図4:入出力(神経細胞への電流注入に対する発火活動)測定データに基づいてのニューロンダイナミクスの自動同定(実験データ提供:Semyanov研究ユニットのI. Song)。測定データが細胞の入出力応答(Iext、Vm)だけであるので、膜コンダクタンスGmやトランス膜電流Iintなどの、測定されていない変数の振る舞いを推定する必要がある。図左は細胞および電流注入に対するその反応を表示。図右はニューロンモデル(Hindmarsh-Roseニューロンモデル)の方程式と位相図、および測定データ(黒い曲線)とモデルの振る舞い(赤い曲線)の比較を表示。

また、オランダのアイントホーフェン工科大学の研究者およびロシアのNizhny Novgorodが参加したプロジェクトにおいて、スライスされた標本中のニューロンの挙動の観察、分析、同定およびモデル化のために我々の独自の手法を用いました(図4)。ここでは解析的にも示せるように、測定データから得られる情報が不足している場合、一様収束を前提とした手法でモデルパラメータの推定を行うことはできません。そのため、遊走性を備えたダイナミクスに基づいた我々の手法が選ばれました。


我々が提案したパターン認識のモデルは、不安定性を有した対象の振る舞いを扱うことのできる適応的制御の手法を応用したもので、二光子顕微鏡によって得られた画像データの解析や、Hindmarsh-Roseニューロンモデルのパラメータ推定のためのアルゴリズムにも応用が可能です。我々は、このような理論こそが、理論神経科学の発展にとって不可欠であると考えています。


(1) Ito, J., Nikolaev, A.R. and van Leeuwen, C.: Dynamical rule in the spontaneous transitions between brain states. Human Brain Mapping (2007), in press.
(2) Gong, P. and van Leeuwen, C.: Dynamically maintained spike timing sequences in networks of pulse-coupled oscillators with delays. Physical Review Letters (2007), in press.
(3) Tyukin, I., Prokhorov, D., and van Leeuwen, C.: Adaptation and parameter estimation in systems with unstable target dynamics and nonlinear parameterization. IEEE Transactions on Automatic Control (2007), in press.
(4) Tyukin, I., van Leeuwen, C.: Decentralized adaptation in interconnected uncertain systems with nonlinear parameterization. Lecture Notes in Control and Information Sciences (2006), 336:251-270.
(5) Tyukin, I., Steur, E., Nijmeijer, H. and van Leeuwen, C.: Non-uniform small-gain theorems for systems with unstable invariant sets. (submitted, preprint available at http://arxiv.org/abs/math.DS/0612381)
(6) Tyukin, I., Tyukina T. and van Leeuwen, C.: Invariant template matching in systems with spatiotemporal coding: a vote for instability (2007),(submitted, preprint available at http://arxiv.org/abs/cs.CV/0702082)


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