理研BSIニュース No.38(2008年1月号)

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特集

永雄 総一

運動記憶の脳メカニズム

神経回路メカニズム研究グループ
運動学習制御研究チーム
チームリーダー 永雄 総一


はじめに

私たちの動作の大部分は、日常生活の中で脳が学習し、記憶したものを巧みに利用することで行われています。運動に小脳が不可欠な働きをしていることは、小脳を損傷した動物の観察や、小脳障害の患者さんの臨床報告などから、20世紀の前半から知られていました。小脳の働きについて、Marr、伊藤(BSI特別顧問)とAlbusは、1970年前後にそれぞれ独立に、小脳の回路に可塑性があり、運動中に生じたエラーによって小脳皮質を通る信号が修正され、運動の学習が行われるという仮説を提案しました。さらに伊藤ら(1982)は、小脳皮質のプルキンエ細胞のシナプスに長期抑圧(LTD)という可塑性があることを発見しました。このMarr-Ito-Albus説は以後40年近く、世界中で検討されてきましたが、いくつかの反対仮説も提出されました。その代表は、小脳皮質は運動学習に必要な情報を伝えるが、学習が実際に起こるのは出力先の小脳核や前庭核であるという考え方(Miles & Lisberger, 1981)です。Marr-Ito-Albus説をめぐる論争は、Kandelらの有名な教科書にも詳しく紹介されています。私たちの研究チームはこの論争の原因を長年調べてきましたが、最近それに決着をつけるとともに、運動の記憶がシナプスを超えて移動するという新しい概念を確立することができました。


運動の記憶痕跡のシナプス間移動

きっかけになったのは、首藤研究員(現筑波大学人間総合科学研究科)らとともに、マウスを使って水平性視機性眼球反応(HOKR)の長期適応の学習パラダイムをつくることに成功したことです。私たちが車窓から外の景色をぼんやりと眺めたときに、景色の動きに見合うだけ眼が動くことによって、景色がぶれずに見えるようにしているのが、HOKRという眼球運動です。実験室で、マウスの眼前にチェック模様のスクリーンを置き、それを正弦波状に動かすとHOKRによって眼も正弦波状に動きますが、スクリーンの動きを速めにしておきますと、最初はHOKRの効率が低いので、眼はスクリーンについてはいけません。しかし、マウスにスクリーンの動きを見る練習を1時間させると、学習が起こりHOKRの効率が向上し、スクリーンに眼が追従するようになります。練習終了後マウスをケージに戻して暗所飼育し翌日調べると、HOKRの効率は学習前に戻ってしまいますが、このような1時間の練習を1週間毎日繰り返すと、長期の学習が生じ、HOKRの効率が数週にわたって増加することを見つけました。さらに1日の練習で生じた学習の効果は、小脳皮質を局所麻酔剤で不活化すると直ちに消去されますが、1週間の練習で生じた学習の効果はまったく影響されないことに気づきました。つまり、1日の練習でできた運動学習の記憶は小脳皮質に維持されていますが、1週間の学習で長期化された運動学習の記憶は、もはや小脳皮質にはないということになります。さらに電気生理学的に、1週間の学習後には、小脳皮質の出力先の前庭核に運動学習の記憶痕跡が実際にあることを確かめました。このことから、運動学習の記憶は、Marr-Ito-Albus説のとおり、まず小脳皮質に獲得され、学習が進行するにつれて、シナプスを越えて前庭核に移動し、そこで固定化されることが分かりました。つまり、記憶の痕跡の移動が論争の原因の1つであったわけです。さらに、BSI行動遺伝学技術開発チームの糸原重美チームリーダーとの共同研究で、LTDが運動学習の記憶の獲得のみならず、前庭核への記憶の移動にも重要な役割を演じていることが分かりました。


これからの課題

マウスを用いた非常にシンプルな行動実験から、30年近く続いた小脳の役割をめぐる論争に決着をつけ、小脳皮質に獲得された記憶が、シナプスを越えて神経回路内を移動することにより長期間保持されるという、今までの脳科学の常識を覆すような考え方を提案することができました。現在、私の研究チームでは、運動の記憶痕跡の移動のメカニズムを、形態学、遺伝子発現、電気生理の手法で検討しています。また、運動の記憶痕跡の移動が、霊長類でも生じることを確かめました。記憶痕跡の神経回路内の移動は、海馬が主役を務める陳述記憶のシステムでも起こることが示唆されていますが、その本体はまったく分かっていません。記憶痕跡の移動は、記憶の保持にとって重要な意味を持つと思います。そのメカニズムを明らかにすることが、私たちの記憶の謎を解く重要な手がかりになることを期待しています。


引用文献

Shutoh F, Ohki M, Kitazawa S, Itohara S, Nagao S.: Memory trace of motor learning shifts transsynaptically from cerebellar cortex to nuclei for consolidation. Neuroscience 139, 767-777 (2006).


図1:マウスの水平性視機性眼球反応(HOKR)測定装置。マウスの前面に置いたコールドミラーを用いて、赤外レーザー光で照らされた眼球の像をテレビカメラでモニターし、瞳孔の中心の位置をリアルタイムで測定する。 マウスの周りに置いたチェック模様のスクリーンを正弦波状に回転させると、HOKRが誘発されて、眼が正弦波状に動く。HOKRの効率を、眼の(E)とスクリーン(S)の動きを比較することで定量化する。


図2:HOKR の長期適応パラダイム。

【A】マウスのHOKRでは1日1時間の練習を行うことで、運動学習が生じ効率(HOKR gain:眼の動きとスクリーンの動きの比)が増加する。練習終了後、マウスをケージで暗所飼育するとHOKRの効率は元に戻るが、1日1時間の練習を1 週間続けて行うと、長期の運動学習が生じ、毎日の練習前のHOKRの効率も徐々に増加する。練習をやめてマウスを普通の状態で飼育すると、長期の運動学習によって増加したHOKRの効率は2週間くらいで回復した。

【B】長期運動学習における小脳皮質不活化の効果。4日間続けて1日1時間の練習を行うと、長期の運動学習が生じ、HOKRの効率が増加する(左は6匹のマウスの平均値、右は典型例)。4日目の練習の終了直後に両側の小脳皮質に局所麻酔剤(Lidocaine)を投与したところ、当日の練習によって生じた HOKRの効率の増加(赤と灰色のグラフの差)は消去されたが、それまでの3日間の練習で生じたHOKRの効率の増加(灰色と白のグラフの差)はまったく影響されなかった。



図3:運動学習の記憶痕跡の小脳皮質から前庭核への転移。HOKRの運動記憶は、まず小脳皮質に獲得される(STM、運動の短期記憶)が、学習がさらに長期間続くと、小脳皮質(FL)の出力先である前庭核(VN)に転移し、そこで長期記憶(LTM)として固定化される。 登上線維(cf)入力によって生じる小脳皮質の平行線維(pf)-プルキンエ細胞シナプスの長期抑圧(LTD)は、運動記憶の獲得(STM)のみならず固定化(LTM)にも重要な役割を演じている。

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