理研BSIニュース No.29(2005年8月号)

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特集

吉原 良浩

嗅覚の分子生物学

シナプス分子機構研究チーム
チームリーダー
吉原 良浩(よしはら よしひろ)


はじめに

嗅覚系は、物体から発せられる匂い分子を受容し、その情報を鼻から脳へと伝え、匂いのイメージを脳内に創造する神経システムです。嗅覚研究は1991年のLinda BuckとRichard Axelによる匂い分子受容体遺伝子ファミリーの発見(2004年ノーベル医学生理学賞)が契機となり、この15年間で飛躍的な進歩を遂げました。特に分子生物学・発生工学・電気生理学・イメージングなどの手法を駆使したさまざまな研究によって、嗅上皮(鼻)における匂い分子受容体の発現と機能、嗅球(脳の入口)における匂い地図の存在が明らかとなり、鼻から脳の入口に至る匂い情報のコーディング様式については、かなりの部分が解明されてきました。


嗅覚システムはその機能発現のために、非常に秩序だった精緻な神経回路網を備えています。シナプス分子機構研究チームではマウスおよびゼブラフィッシュをモデル動物として用い、分子レベルから細胞・神経回路さらには行動レベルまで、嗅覚神経系の形成・維持・機能発現・可塑的変化のメカニズムの解明を目指して研究を行っています。本稿では当研究チームで得られた嗅覚神経回路形成機構についての最新の3つの研究成果を紹介します。


図1:コントロールマウス(左)およびArx欠損マウス(右)の嗅球。 (A、B)Arx欠損マウスの嗅球は正常マウスに比べて小さい。 (C、D)嗅球切片の三重蛍光免疫染色像。Arx欠損マウスの嗅球では多くの抑制性介在ニューロン(赤)が嗅球に到達できないことから、僧帽細胞層(緑)の構築にも異常が認められる。また大部分の嗅細胞軸索(青)は嗅球へ投射できずに、嗅球の前方で停留し、fibrocellular mass (FCM)という異常な構造体を形成している。


図2:ゼブラフィッシュ嗅覚神経回路の蛍光可視化。
図2:ゼブラフィッシュ嗅覚神経回路の蛍光可視化。繊毛あるいは微絨毛を有する嗅細胞に特異的に発現するOMPおよびTRPC2遺伝子のプロモーターを用いて、それぞれの軸索を(A)RFPおよび(B)YFPでラベルした。(C)繊毛嗅細胞の軸索(マゼンタ)は嗅球の背側および内側の領域に、微絨毛嗅細胞の軸索(緑)は嗅球の外側の領域に、それぞれ相互排他的に神経接続しているのがわかる。


図3:ゼブラフィッシュの鼻から脳へと軸索が伸びる様子を同一個体で生きたまま観察した共焦点レーザー顕微鏡像。Robo2機能欠損変異体(右)では、発生初期の嗅細胞の軸索が本来の道筋からそれて、嗅球に到達できずに脳の他の領域に侵入している(矢印)。
(A-D、F-I)顔の正面より観察
(E、J)背側から観察
dpf:受精後の日数

マウス嗅覚神経回路の構築に必須な転写調節因子Arx

嗅覚系には成体においても神経新生を起こす 2種類のニューロンが存在します。ひとつは嗅上皮の嗅細胞(感覚細胞)であり、もうひとつは嗅球内の抑制性介在ニューロンです。Arxは胎生期早くから成体に至るまで、この抑制性介在ニューロンにおいて発現するホメオボックス型転写調節因子です。当研究チームの吉原誠一研究員は三菱化学生命科学研究所の北村邦夫博士(現・国立精神・神経センター)との共同研究で、Arx遺伝子欠損マウスを用いて、その嗅覚神経回路構築における機能についての詳細な解析を行いました。Arx遺伝子欠損マウスでは抑制性介在ニューロンが嗅球の正しい場所へと移動・配置できず、その結果、正常マウスよりも小さな嗅球となっていました(図1)。さらに、このマウスにおいては嗅細胞から嗅球への軸索投射にも異常が起きており、嗅球の形成不全が鼻から脳への神経接続にまで異常をもたらしたと考えられます。これらの結果から、Arxは嗅覚神経回路の構築に必須な遺伝子であることが明らかとなりました。また、正常マウスにおいてはArxによって発現制御を受け、嗅球から嗅細胞へと働きかけて軸索投射をガイドする未知のシグナル分子が分泌されており、Arx遺伝子欠損マウスではこのシグナル分子が欠如しているという興味深い可能性が示唆されました。


ゼブラフィッシュ嗅覚神経回路の蛍光可視化

熱帯魚ゼブラフィッシュはその発生の速さ、哺乳類に比して単純ですが基本的構築は同様の神経回路網、トランスジェニックフィッシュ作製・変異体作製・遺伝子ノックダウンなどの遺伝子工学的技術の進歩などのさまざまな利点を有し、発生生物学および神経科学研究に有用なモデル動物となりつつあります。さらに、ゼブラフィッシュの胚は透明であることから、各種蛍光蛋白質を特定のタイプのニューロンで発現させることにより、細胞移動、軸索・樹状突起伸長、シナプス形成、神経回路網構築などの発達過程を in vivoでリアルタイム観察することができます。また嗅覚系に関しては、ゼブラフィッシュの匂い分子受容体遺伝子数および嗅球の糸球数はマウスよりも1 オーダー少なく、匂い情報の受容・コーディング・プロセシング・可塑性を研究するのにも適したモデル動物であるといえます。


ゼブラフィッシュの嗅上皮には、繊毛あるいは微絨毛を有する2種類の嗅細胞が混在しています。当研究チームの佐藤友紀テクニカルスタッフらはこれらの嗅細胞に特異的に発現する遺伝子(繊毛嗅細胞:OMP、CNGA2、OR-type receptors/微絨毛嗅細胞:TRPC2、V2R-type receptors)を見出し、OMPおよびTRPC2各遺伝子のプロモーター支配下に異なったスペクトルの蛍光蛋白質を発現するトランスジェニックフィッシュ系統を作製しました。その結果、2種類の嗅細胞はそれらの軸索を嗅球内の異なった領域の糸球へと相互排他的に投射することを発見しました(図 2)。このことから、ゼブラフィッシュ嗅覚系にはマウスと同様に2種類の神経回路があり、各々が機能的に異なった嗅覚情報(おそらくフェロモンと匂い分子)を担当していると考えられます。


嗅球の匂い地図形成を司る軸索ガイダンス分子Robo2

さらに宮坂信彦研究員らは前述の実験で作製したトランスジェニックフィッシュを用いて、嗅細胞軸索投射を司る分子の探索を行いました。その結果、発生初期にだけ嗅細胞に発現するRobo2が、その軸索を嗅球まで正しく道案内するために必須な軸索ガイダンス分子であることを見出しました(図3)。さらにRobo2機能欠損ゼブラフィッシュ変異体では、成魚においても鼻と脳を結ぶ神経配線に異常があり、嗅球における正常な『匂い地図』が形成されないことを発見しました。これらの結果からRobo2が鼻と脳を結ぶ最初の神経接続に必須な分子であることが明らかとなり、私たちは『発生初期の未熟な神経接続が後の精密な神経配線を構築するための足場となる』というモデルを提唱しています。


おわりに

嗅覚(化学感覚)は単細胞生物にも存在する最も原始的な感覚であり、10億年の進化を経て、私たち人間にまで受け継がれてきています。人間の嗅覚は、マウスや魚と比べると、あるいは視覚や聴覚と比べると、あまり重要視されていない感があります。けれども、香りのないコーヒー、黄色いだけのキンモクセイ、分厚いだけのステーキで、あなたは満足できますか?


参考文献
Yoshihara et al.: Development 132: 751-762 (2005)
Sato et al.: J. Neurosci. 25: 4889-4897 (2005)
Miyasaka et al.: Development 132: 1283-1293 (2005)


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