2014年もアルフレッド・ノーベルの命日に行われたノーベル賞授章式。生理学・医学賞は、大変嬉しいことに、脳科学分野の研究者3名へ贈られた。ジョン・オキーフ博士、マイブリット・モーザー博士と夫のエドバルト・モーザー博士が行った研究、脳内における空間の認識を支える ” Place cell(場所細胞)” と ” Grid cell(格子細胞)” の発見について解説しよう。
John O’Keefe (ジョン・オキーフ)
1939年、アメリカ・ニューヨーク市生まれ。
1967年カナダ・マックギル大学にて生理心理学 博士号を取得。後にイギリスのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンへ移り、1987年に同大学の認知神経科学の教授、現在同大学の認知神経科学研究所長。
May-Britt Moser(マイブリット・モーザー)
1963年ノルウェー生まれ。
オスロ大学にて心理学を学び、1995年、神経生理学の博士号を取得。エディンバラ大学にてポスドクフェロー、この間、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのジョン・オキーフの研究にも参加した。現在、ノルウェー中部のトロンハイムに位置するノルウェー科学技術大学(NTNU)のニューラルコンピュテーションセンター長。
Edvard I. Moser (エドバルド・モーザー)
1962年 ノルウェー生まれ。
オスロ大学にて神経生理学の博士号を取得。妻のマイブリット・モーザーとともにエディンバラ大学にてポスドクフェロー、ロンドンのジョン・オキーフの研究にも参加。1996年にNTNUへ移り1998年に同大学で教授となる。現在、カヴリインスティテュート・システムニューロサイエンス所長。
空間を認識する仕組み
私たちは空間の中の自分の位置を瞬時に認識できる。この能力がなければ、広い美術館を動き回って見たい絵画を探しあてたり、地図を頼りに待ち合わせのレストランに到着することはできない。私たちの脳内の一体どこに、空間を正しくナビゲーションするための仕組みがあるのだろうか。オキーフ博士とモーザー博士夫妻は “脳内GPS” ともいえる仕組みを、脳の海馬とそれに隣接する嗅内皮質に発見した。
とはいっても、スマートフォンなどのGPSシステムと脳内のGPSシステムは少し異なる。私たちが日常利用するGPSは、地球の周回軌道を回る複数の人工衛星からの電波をもとに、自分の居場所を計測する。しかし私たちの脳内GPSには、人工衛星のように外から脳に情報を送る仕組みはない。つまり「自分のいる空間」と「その中の自分の位置」の両方を脳内に再構築する必要がある。この再構築を支えるのが海馬の場所細胞と嗅内皮質の格子細胞とよばれる神経細胞なのである。
場所細胞と格子細胞
1971年、オキーフ博士はネズミを使った実験から、海馬の神経細胞にはネズミが特定の場所にいるときだけ反応するという性質を持つものがあることをはじめて示し、” Place cell(場所細胞)” と名付けた。
それぞれ個別の海馬の細胞によって反応する場所が異なることから、オキーフ博士は海馬の場所細胞によって空間の認知地図が脳内に作られる、という説を提唱した。しかし、海馬の個々の細胞がどのような情報をもとにして空間の中の特定の場所を見分けているのか、その仕組みは分からないままだった。
モーザー博士夫妻はオスロ大学の同級生。大学院では同じ研究室に入り、学位取得前に二人そろって、英国ロンドン大学のオキーフ博士の研究室に滞在した。その後、彼らは海馬の場所細胞に必要な情報を提供している脳の領域を探すことに着手した。そして、それまで人々があまり目を向けていなかった海馬のすぐ隣の領域、嗅内皮質に着目したのだ。当時、ネズミの嗅内皮質は技術的にアクセスが難しく、この領域の神経細胞のふるまいはわかっていなかった。ほどなく技術的な問題は解決し、嗅内皮質の神経細胞にも特定の場所で活動するものが見つかったが、驚いたことに嗅内皮質の神経細胞は場所細胞のように空間の一点のみで活動するのではなく、空間内における規則正しい格子状の点全てで活動していた。空間内の格子状の点は空間の座標にあたると考えることができる。これはつまり、嗅内皮質の神経細胞は今動物がいる場所の位置情報を伝えていることを意味する。モーザー博士夫妻は、この嗅内皮質の細胞を ”Grid cell(格子細胞)” と名付け、その性質を次々と明らかにしていった。これは実に、オキーフ博士が場所細胞を発見してから30年以上も後のことである。
今回の受賞の特異性と意義
ノーベル賞の選考過程は謎に包まれている。毎年様々な予想がなされるが、今回のオキーフ博士らの受賞を予想していた人は少なかったのではないだろうか。2012年受賞の山中教授のiPS細胞もそうだが、ノーベル生理学・医学賞に関して言えば、医療につながるという形で社会的貢献度が高い研究が、多く受賞してきた。この観点からすると、今回の場所細胞と格子細胞の発見は今のところ直接医療につながるようなものではない。しかし、人が世界を認識する仕組みの理解は哲学にもつながる大きな課題であり、人間の認識を神経細胞の計算という科学的な要素で理解できた例として非常にインパクトの大きな研究である。世界的に実用につながる研究が優遇される傾向にあるなか、このような基礎研究がノーベル賞を受賞することは、研究の原動力は人間の知的好奇心であるという面が評価されたようで喜ばしい。
かつてドイツの哲学者カントは、空間は経験によらない「アプリオリな認識(アプリオリ:経験を必要としないもの)」であると主張し、同じくドイツの哲学者であるショーペンハウアーは「世界は私の表象(representation)である」と述べた。経験によらず場所に反応する場所細胞や格子細胞は、ある意味このようなアプリオリな認識を裏付けるものかもしれないし、場所細胞や格子細胞の情報から脳内に空間の認知地図を作り上げる私たちにとって、世界は表象といえるのかもしれない。
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ノーベル財団:http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/
受賞研究概略:PDFはこちら
Norwegian university of science and technology, NTNU:
http://www.ntnu.edu/nobelprize2014