1963年にノーベル医学生理学賞を授与されたジョン・C・エックルス(John Carew Eccles)先生は私にとっても歴史上の偉大なる脳神経科学者であり、身近に感じることができない存在です。幸運にもエックルス先生の一番弟子である伊藤正男先生から様々なすてきなエピソードをきかせていただくことができました※1。
ジョン・C・エックルス(John Carew Eccles)
オーストラリア、メルボルン出身の脳神経科学者。1963年、抑制性シナプス後電位(IPSP)の発見によりノーベル医学生理学を受賞。オーストラリア、キャンベラでは “Sir John(サ・ジョーン)”と呼ばれ、多くの研究者と技術者たちに慕われた。著書は「自我と脳」「脳の進化」「自己はどのように脳をコントロールするか」など。
伊藤 正男
名古屋出身の脳神経科学者。東京大学第一生理学教室教授、日本学術会議会長、理化学研究所脳科学総合研究センター長を歴任。現在、理化学研究所 脳科学総合研究センターの特別顧問。1996年に文化勲章を受章。1959年~1962年、キャンベラにあるオーストラリア国立大学において、エックルス先生と同じ実験室で研究を進める。卓越した実験技術で多くの論文を発表されたことからエックルス先生から一番弟子として信頼されていた。
1932年にノーベル医学生理学賞を授与されたシェリントン(Charles Scott Sherrington)先生からエックルス先生へと引き継がれた「反射を使って脊髄のメカニズムを理解する試みを経て、脳のメカニズムや心のメカニズムまでの解明を目指す」という考えを知り、また、その考えは私たちの時代まで脈々と続く“見えない流れ”を感じさせ、感動しました。もちろん、そこには人種や国籍の違いはありません。私自身、好きな研究をしているだけと考えがちなのですが、その研究は、多くの偉大なる研究者たちの足跡があってのことなのだと感じる訳です。私たちがより一層研究を深めて行くためには、その足跡を知り、“思いを馳せて”みることも重要だということ学びました。
チャールズ・シェリントン(Charles Scott Sherrington)
イギリス出身の脳神経科学者。1932年、神経細胞の研究でノーベル医学生理学を受賞。現代脳科学の父と称される。エックルス先生はシェリントン先生の研究室で学位を取得している。
その足跡を追い求める良い機会がありました。エックルス先生がキャンベラで研究されていたときの弟子の一人、ストラータ(Piergiorgio Strata)先生にエスコートしていただき、エックルス先生の奥様であり、研究者でもあったヘレナ(Helena Eccles)夫人の案内でエックルス先生のお墓参りに行きました。ヘレナ夫人は、エックルス先生がmind(心)に興味を持っていたことや、ロボットスーツについて50年前にはすでに考えていたことなど、生前のエックルス先生のお考えを教えてくれました。
エックルス先生の時代から時間が経っている現在、技術開発が進み、その時代では夢のような技術を私たちは手にしていますが、未だmind(心)について全く分かっていません。エックルス先生が亡くなった日(1997年)からもう17年。どれだけ脳科学が進んだのかと問われると答えに窮するかもしれません。今、私たちが知りたい、調べたいと思うことはずっと前にエックルス先生と優秀な弟子たちがすでに考え、議論し合い、本気で取り組んできたんだ、ということを教えてくれているように思えます※2。そして、その思いは脈々と受け継がれ、私たちに託されているのだと実感できました。
私たちには脳科学の大きな一歩を進ませる責任があるのだと感じる一方、シェリントン先生が解明できなかったmind(心)をエックルス先生は自分の手で明らかにしたいと考えていたはずですから、それは私たち自身の手で明らかにする願ってもないチャンスをいただいているのかもしれません。
エックルス先生がノーベル医学生理学賞を授与されたことよりも、亡くなってから17年経った今、ご高齢の身体にも関わらず無理をしてでもお墓参りをしたいと思い集まる弟子たちがいることの方が、エックルス先生は偉大なる脳神経科学者であり、弟子たちにとても強く愛され、尊敬されているのだということを示しているように思えます。そして、その弟子たちが私の目の前で、エックルス先生の思い出話をしながらも、現在や未来の脳科学について熱く議論している。その姿をみて、若い私に「受け継いでみなさい」と叱咤激励をしてくれているようにも感じました。
最後に、ヘレナ夫人が強く仰っていました。“I miss him every day.”と。これは弟子たちみんなも思っていることなのだと思います。もう一度会って、脳科学について熱い議論をしたいと。そして、教えを請いたいと。弟子たちが本気でそう思える師匠であるからこそ、師匠は偉大なる研究者であり、弟子たちも偉大なる研究者であるのだということを教えてくれます。弟子と師匠の絆の強さやその大切さを肌で感じました。そんな偉大なエックルス先生に一度お目にかかりたかったと、そして、エックルス先生が伊藤先生をはじめとする偉大なる弟子たちと議論している様子を一度見てみたかったと強く思わせるほどに。
※1 伊藤正男, 酒井邦嘉, “ジョン・C・エックルス”, BRAIN and NERVE 65: 589-594, 2013
※2 Ito, M., “John C. Eccles(1903-97)- Obituary”, Nature 387: 664, 1997
左:エックルス先生が残された本。現在、ハインリヒ・ハイネ大学で所蔵されている。
右:ヘレナ夫人との再会。左からヘレナ夫人、著者、伊藤夫人、中央前が伊藤正男先生
デュッセルドルフにあるハインリヒ・ハイネ大学に所蔵されている本の数を見て、エックルス先生が書き残された本を日本語に翻訳した研究者が多いことに気づく。これが示すように、多くの日本人研究者を優秀な研究者として育て上げられたエックルス先生は、その功績が評価され、1986年11月に勲二等旭日重光賞を受賞した。