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第2回 将棋の魔力に魅入られて

大熊 健司 独立行政法人理化学研究所 横浜研究所所長

筆者近影  将棋と脳の研究が理研で始まってはや四年目。将棋連盟の米長会長に、桜満開の理研和光にお見え頂き、そのとき脳科学センターに立ち寄ってもらったところ待ち受けていた伊藤顧問と意気投合して始まったこの研究。これまた将棋好きで米長さん知り合いの富士通川妻常務の支援もあって今日まできた。私はいわば介添え役のような役回り。米長さんに来てもらおうと企画したときは、いくら将棋好きとはいえ、こうなるとは思いもよらなかった。さて、良い機会を得たので、将棋に勝つための方法論の有用性、また詰め将棋については私の頭に浮かぶ現象など以下若干書いてみたい。

 子供の時に自然と覚え、その後ずっと今日まで将棋を愛好している。魔力に魅入られてはや五十年を超える。きっかけは、子供心に負けて悔しいと思ったことだが、もう一つは、本との出合いだ。一つは、加藤治郎著「将棋は歩から」。名著、古典。歩という一番弱い駒を使いこなすことがいかに勝ちにつながるか、子供心に目から鱗が取れた思いであった。書かれた手筋を駆使すれば、驚くなかれ有利な状況が生まれてくる。学ぶことがいかに大切か、まさに学んで時にこれを習う、実戦に応用する、効果抜群、楽しくってたまらなかった。原田泰夫八段推奨の「三手の読み」も学んだ。この手法は、実社会でのマネージメントに通用する心構えだ。愛用し、方々に推奨している。
 飛車でもない角でもない、まったく華やかでない歩という駒が実は一局の死命を制すること、己の身勝手な考えでは決してうまくいかない将棋、相手のあることをいつも意識してその先を考えることの大事さ、社会に出てからいかにこうした思考方法に助けられたかと将棋を覚えたことに感謝している。

羽生名人の実験参加に際して(筆者左)  もう一つ、今の私に大きく影響を与えたものを書いてみる。それは、当時の、雑誌「将棋世界」の付録である。もう中学生になっていた頃だ。アマ参段の免状を持っていた父親は、「将棋世界」を購読していたので付録を、こっそりよく読んでいた。二回にわたって付録になってきたものに魅惑されて、その因が、今日の詰め将棋好きの果となるとは思いも依らないことであった。いや、よくあることかもしれない。その付録とは、「将棋図巧百番」。江戸時代につくられ、詰め将棋を好む人間にとっては最高の作品集である。三十手までの作品だけでも詰めようと、通学の、電車内でまた歩きながらの時だけなどと時間を決めて始めたところもう歯が立たない。当たり前だ、まさに何も知らない蟷螂の斧。のめりこみ、寝ても覚めても必死で考える。今思えば無謀そのもの。決して答えは見まいと心に決めて、長時間図とにらめっこ。そうしているうちに、目をつぶっても局面が現れるようになりそれを詰めるようになる。更には、歩きながらでも、別に図を見ないで詰めている自分に気がつく。もう無理かと半ばあきらめ、そのことを考えていないときに例えば、通学の電車内でふっと思いがけない手が浮かぶ。浮かぶから不思議だ。よしこれだと思って、改めて考え、詰めたことも再三ならずあった。作品のなんと芸術的なことよとただただ感嘆した。詰めきった後のあの高揚感は、作者伊藤看寿の意図を捉えたことの何ものにも変えがたい喜びであった。詰め将棋が好きになると一番困るのは時間がなくなることだ。私の関心は詰め将棋ばかりではないが、いったん詰めようと思うと詰めきりたくなる。中断することが苦手だ。だから新幹線東京神戸往復の車内でやっと一問解いたなど良くある。好きだからいくら考えても飽きない。明け方目が覚めて、暗闇で解くこともあり、目を開けて、歩きながら解くこともあるが、ただ車の運転中だけは、決して詰めまい、詰め将棋は心から締め出すことにしている。
 詰め将棋は、数学の問題と似ていると思っている。基本的に答えは一つ。きわめてロジカル。しかし、解き方から言えば、代数の、順々に方程式を解いていくような方法論があるわけではない。どちらかといえば幾何の世界。補助線を描けばたちまち解けてくることと似ていなくもない。詰め将棋の作図を見、すると、経験と勘としか言えないが、此処に答えの道があるとの心の囁きがすぐに起こりその声に導かれて、時に行きつ、戻りつ、戻りつ、行きつして、やがてその奥の作者の意図が見えてくる。
 以上、将棋を楽しみながら考えさせられたこと、詰め将棋を解くときに起こる頭の働きなどを書いてみたが、要するに面白い脳の働きを私なりに実感していたのである。まだまだ楽しみ、老化現象など吹き飛ばしてしまいたいと、願っている。

 
 
独立行政法人 理化学研究所 脳科学総合研究センター 将棋思考プロセス研究プロジェクト(将棋プロジェクト)