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第4回 「狭い帰納主義」を超えて

山川 宏 株式会社富士通研究所

筆者近影  ヒトの持つ柔軟な知能の仕組みを解き明かしそれを工学的に実現しようとする「脳型コンピュータ」(第三回でも取り上げられていますが)は、人工知能分野の研究者にとって、またそれ以前から脈々と連なる人類の大きな夢の一つかと思う。
 私自身も、1990年頃のニューロコンピューティングブームを起点として柔らかい情報処理の実現を目指したリアルワールドコンピューティングプロジェクトに参加していた。当時は、米国の数学者M.ミンスキーの著書「Society of Mind」に触発され、システム内で多様なエージェントを協調・競合させることでヒトのような知能を自律的な学習・創発させる試みをつくば研究センタで行ったが、いまにして思えば、脳についての知見はおおいに不足していたかと思う。
 幾多の偶然が重なり、私も微力ながら富士通研究所の研究協力者として当プロジェクトに携わらせていただき4年ほどになるが、2006年の夏に、弊社の川妻常務より、はじめてプロ棋士の脳に迫る探索的な共同研究に取り組む話をお聞きした際には、新たな時代の流れを痛感したものである。脳活動測定には未だ制約が多いとはいえ、非侵襲の脳機能イメージング技術等の進歩が大きく後押ししたのかと思う。
 今回私としては、人工知能研究者の立場から、将棋を題材としてコンピュータからみたヒトの直観能力について若干書いてみたいと思う。

 近年の情報処理技術においては、様々な分野において取り扱う情報表現の標準化が進行し、それに基づいて大量のデータが蓄積されはじめられている。 その上で計算処理能力とメモリを惜しみなく使うことで、性能向上をはかるアプローチが増えているようだ。例えば情報検索・推薦・画像認識などにおいて、比較的単純なアルゴリズムで大量データを処理することで性能向上を図ることがトレンドになっている。
 最近知ったのだが、ドイツ生まれの哲学者のC.ヘンペルが述べている「狭い帰納主義」という仮説生成プロセスを含まない科学的探求のあり方(以下参照)は、今のコンピュータの実情を鋭く言い得ているように感じる。

 超人的な能力と広い知性を有するが、しかしその思考の論理的過程に関する限りは普通である人は………どのように科学的方法を用いるかということを想像してみると、その科学的方法の過程はつぎのようなものであろう。
 第一に、事実の取捨選択をしたり、あるいはそれらの事実の相対的な重要性に関してアプリオリな推定を下したりはせずに、すべての事実が観察され記録されるであろう。第二に、思考の論理に必然的に含まれている以外の仮説や仮定は用いずに、観察され記録された事実の分析、比較、そして分類が行われるであろう。第三に、それらの事実に関するこの分析から、それらの事実の間の分類上の諸関係または因果的な諸関係についての一般化が帰納的に行われるであろう。第四に、まえに確立された一般化からの推論を用いながら、さらに研究が帰納的にだけでなく、演繹的にも行われるであろう。
(出典: 米盛裕二、アブダクション―仮説と発見の論理、勁草書房、2007. p.155)

 つい先頃(2010年10月11日)に,合議型コンピュータ将棋システム「あから2010」が,初めて公の場にてプロのトップ棋士「清水市代女流王将」に勝利したが、実はコンピュータ将棋も、この「狭い帰納主義」のアプローチにより、プロ棋士並の棋力を実現しているのかと思う。 つまり潤沢な計算処理能力を利用して演繹推論としての深い指し手の探索を行い、さらに膨大な棋譜データを用いて帰納推論である盤面評価関数を学習している。プロ棋士が瞬時に次手が思い浮かべる直観力は、後半の盤面評価関数を用いたパターン認識能力に対応しそうだが、未だその能力はプロ棋士に遠く及ばないとも言えそうである。何故ならコンピュータ将棋は、ヒトとは比較にならない深く広い探索(読み)を行うことで、ようやくプロ棋士に伍する棋力を発揮しているからである。
 この直観的な盤面認識については、すでにプロ棋士の脳活動測定を通じて楔前部(頭頂葉内側面の後方に位置する脳回)の役割が重要であることが示唆されている。今後、楔前部のパターン認識能力の獲得メカニズムをより詳細に分析できれば、直観力の基盤となるパターン認識の原理に迫りうるのではと、楽しみにしている。
 この研究へのさらに贅沢な将来への期待としては、時に科学的な発見に結びつくような創造的知能を脳型コンピュータとして実現することがある。
 演繹推論と帰納推論を用いた「狭い帰納主義」を超えて創造性を生み出すには、C.S.パースが述べているように第三の論理であるアブダクションが必要であろう。アブダクションは、たとえば、「陸地の奥から魚の化石が見つかった(驚くべき事実)ならば、昔はこの一帯は海だった(仮説)に違いない」というように、驚くべき事実を説明する仮説を生成するが、これはヒトにとっては日常的な思考法である。もちろんプロ棋士が新たな手筋を思いついたり、アルキメデスが公衆浴場で浮力に気がついたりするといった偉大な創造や発見は希な出来事ではあるが、実はある分野に精通し日常的に専門知識を扱うプロフェッショナルにとっては、必然といえるようなアブダクションが結果として人類にとって未踏の世界を切り開いていくのではないかと思っている。
 プロ棋士は長年のトレーニングの中で、日々自分なりに新しい仮説を構築してそれを検証するプロセスを繰り返すなかで、有力指し手(仮説)の案出機能への関与が示唆されている尾状核頭部(大脳基底核の一部)の能力を鍛え上げているのかもしれない。

 ところで将棋プロジェクトではコンピュータでは未実現の直観力を解き明かすため、敢えて脳科学の常識では難しいと思われる複雑な課題に挑んでいる。それ故、研究は未だ道半ばではあるが、脳科学の世界に新たな息吹を吹き込めてきたのではないかと思っている。

 
 
独立行政法人 理化学研究所 脳科学総合研究センター 将棋思考プロセス研究プロジェクト(将棋プロジェクト)