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第5回 経験で育まれた知識と脳科学

将棋棋士 佐藤 和俊 五段

筆者近影  将棋プロジェクトの研究が始まって数年になるが、自分が好きで始めた将棋によって人と違った思考能力が身についていることがあれば驚きの事で、脳科学の難しい事は全くわからない素人の私だが興味を持って実験に協力させてもらっている。普段はあまり将棋によって得た能力を意識することはないが、日常生活の何気ない場面である歯を磨いているときやテレビを見ているときでもふと将棋盤が頭に浮かんで敗戦局の反省や新しい手を考えてしまうことがよくある。また棋士仲間とくだけて飲んでいる席でも「あの将棋のあの手は」となれば「ああ、あれね」と直ぐに会話が成立し脳内検討が始まってしまう。こうした習性は棋士の悲しい性(さが)なのかもしれないが身に付いたアビリティであることは間違いないだろう。
 習性と言えばもう一つ、休日の朝TVで将棋の対局を見るとき寝起きや人の将棋ということもあり著しく集中力の欠いた状態で見ているときがある。そういった時でも目から局面の情報が入ると脳が働いている感覚がなくても直観で手が浮かんで来てくれるし、また局面の優劣なども判断してしまう。まるで将棋の盤面をみたら自然と考えるように長年の経験で思考回路が組み込まれてしまっているかのように感じることもある。
 やはり経験が脳に蓄積し影響している部分は大きいのだろう。プロジェクトの実験で初期に局面認知という実験を受けたが非常に興味深かったことがある。局面認知とはある局面を何秒かで覚えてその後再現するという実験だが、実際に有った局面でごちゃごちゃした形でなければ棋士ならだれでも容易に再現できるだろうし、有名な将棋が例題図なら中には○○戦の○○VS○○の将棋とまで答えられる人もいるだろう。この実験は経験と知識が生きる実験なのだが問題を実際にはありえない駒をランダムに置いた局面にすると一変することになる。認知能力は半減して正確に覚えるにはかなりの時間を要するし、そもそも頭が覚えることを拒絶しているような感覚に私は襲われた。ひょっとしたら良い形、悪い形というのを知識だけではなく感情で感じているところもあるのかも知れない。

 話は変わって先頃10月に行われた清水女流王将VSあから2010の人間対コンピューターの対戦は大変興味深い対戦だった。今回のコンピューターは4つの将棋プログラムが合議制によって指し手を決めるシステムだったが難所の局面ではだいぶ意見が割れていた。究極のコンピューターとは極論かもしれないが常にどんな局面でも最善手が指せることだと私は思っているが、将棋は正解がないような曖昧で難しい局面に多く遭遇する。なかなかコンピューターも神の領域に到達するのは大変と感じたのと将棋の奥の深さを再確認した一戦でもあった。  とはいえコンピューターの成長は人間にとって脅威で、特に詰将棋を詰ます能力やスピードは人間ではとても太刀打ちできない。またコンピューターは感情に左右されることが無いのでこれも人間と違った一つの大きな強みといえると思う。将棋は悪手が連続しやすいといわれるがこれは前の悪手を引きずってしまったことで起きるし、勝ちを意識して気を抜いた瞬間も危険で悪手の出やすい状況といわれている。このように感情と精神は人間にとってコントロールの厄介なものであるが、果たしてそういったものがどの位脳の思考に影響しているのか。精神と脳の関連性を解くのは非常に難しい問題だと思うが将来的には解析されることを楽しみにしている。
 脳と将棋について思うことをあまり脈絡もなく述べさせてもらってきたが、私は脳と聞くと宇宙をイメージしてしまうように荘厳で神秘的な世界だと思う。将棋を通じてこの神秘の扉をあけることに協力できていることはとても幸せなことで今後の研究の進展を心待ちにしている。

 
 
独立行政法人 理化学研究所 脳科学総合研究センター 将棋思考プロセス研究プロジェクト(将棋プロジェクト)